拓跋燾(408-452)의 도교 숭배와 불교 탄압. 446년.
삼무일종三武一宗. 사대법난四大法難
三武一宗の法難(さんぶいっそうのほうなん、中国語:三武之禍、拼音: sān wǔ zhī huò)は、中国の歴代王朝が仏教を弾圧した事件のうち、とりわけ規模が大きく、また後世への影響力も大きかった4人の皇帝による廃仏事件のことである。各皇帝の廟号や諡号をとってこう呼ばれている。三武一宗の廃仏とも。
廃仏の状況
北魏の太武帝と唐の武宗とは、道教を保護する一方で仏教を弾圧したが、
北周の武帝は、道教も仏教もともに弾圧した。その一方で、通道観という施設を新設し、仏教・道教を研究させている。後に述べるように道教の保護だけに留まらず経済政策の意味もあった。
唐の武宗の仏教弾圧については、その元号をとって会昌の廃仏と呼ばれる。
4度の廃仏事件
北魏の太武帝(在位 : 423年 - 452年)の太平真君年間。
北周の武帝(在位 : 560年 - 578年)の建徳年間。
唐の武宗(在位 : 840年 - 846年)の会昌年間。
詳細は「会昌の廃仏」を参照
後周の世宗(在位 : 954年 - 959年)の顕徳年間。
各廃仏時の扇惑者とされる人物
北魏 : 崔浩(北魏の司徒)・寇謙之(道士)
北周 : 衛元嵩(還俗僧)・張賓(道士)
唐 : 李徳裕(唐の左僕射)・趙帰真(道士)
弾圧政策の内容
弾圧政策の具体的内容は、寺院の破壊(但し、必ずしも施設の破壊を意味する訳ではない。一般施設や住居に転用される場合が多い)と財産の没収、僧の還俗であり、特に後周の世宗の場合は純粋に、寺院の財産を没収するとともに、国家の公認した度僧制度によらず勝手に得度した者(私度僧)や、脱税目的で僧籍を取る者(偽濫僧)を還俗させて税を課そうとする、財政改善を狙った経済政策であった。銅(貨幣の材料)や鉄(武器の材料)という金属を中心とした物資を仏寺中の仏像や梵鐘などから得ることも、当時の情勢(唐の武宗時代の銅銭不足による経済混乱、後周の世宗時代のいわゆる「十国」の再統一事業)からして、差し迫った問題であった。
仏教の影響力
軍事面でも、出家して軍籍から離脱する国民が大量に出ることは、戦乱の時代にあっては痛手であった。特に五胡十六国時代には、それまで啓示系の宗教が中国には無かったこともあって、仏教の影響力は絶大で、北斉の史官魏収は、寺3万、僧尼200万と記しており、この数字を鵜呑みにするならば、全人口が1000万にも達しなかったであろう当時の割拠政権にとって、そのような膨大な人口を再び国政に戻すことは、必要に迫られた事情であったと言える。
関連項目
法難
サムイェー寺の宗論(792年 - 794年)
孫巖《宋書》曰:拓跋燾,字佛貍,壯健有筋力,勇於戰斗,忍虐好殺,夷旅畏之。攻城臨敵,皆親貫甲胄。
太武帝(たいぶてい)は、北朝北魏の第3代皇帝。第2代明元帝の長男。字の仏狸は古代テュルク諸語のbüriで、狼を意味する。諱は拓跋燾(たくばつ とう)。
太武帝は、444年に、漢人宰相の崔浩と、信奉していた新天師道の開祖である道士の寇謙之の進言もあってか、広く人士に対して僧侶や師巫を養うことを禁止する詔を出した。それに次いで446年、蓋呉の乱の平定のために長安に向かった時に、長安の寺院中より大量の武器が発見されるという事件が起こった。これによって廃仏の詔を発し、寺院や仏像を破却し、沙門は坑殺に処した(三武一宗の廃仏の第1)。
即位当初は、北方の古代モンゴル族と見られる柔然の対策に重点を置き、425年にその撃退に成功した。続いて華北の統一を図り、匈奴赫連部の劉氏が建てた夏を攻撃し、長安を陥落させ、427年には、都の統万城を落として夏を滅ぼした。
436年には、遼河流域を支配していた馮氏の北燕を滅ぼし、439年には姑臧に拠る匈奴沮渠部が建国した北涼を滅亡させるという東西両方面への八面六臂の活躍により、華北の統一に成功した。五胡十六国時代の終焉である。その後、内蒙古の北辺防備のために、6か所の鎮(六鎮)を中心とした屯田地帯を設けた。
太武帝は、444年に、漢人宰相の崔浩と、信奉していた新天師道の開祖である道士の寇謙之の進言もあってか、広く人士に対して僧侶や師巫を養うことを禁止する詔を出した。それに次いで446年、蓋呉の乱の平定のために長安に向かった時に、長安の寺院中より大量の武器が発見されるという事件が起こった。これによって廃仏の詔を発し、寺院や仏像を破却し、沙門は坑殺に処した(三武一宗の廃仏の第1)。なお、この廃仏を北涼の滅亡をきっかけとして西域貿易を国家の手で掌握したいとする太武帝とこれに反発する商人や彼らから信仰されて保護を受けていた仏教寺院との対立とする解釈もある[1]。
450年に、100万と称した大軍を率いて南征に出発した。南朝宋は大敗し、戦死者は万単位に上ったと伝えられている。北魏軍は瓜歩まで進軍したが、結局、長江を渡ることはなく都の平城に引き返した。ただ、捕虜となった宋民5万余戸は畿内に分配された。また、その最盛期である元嘉の太平の世(424年 - 452年)を謳歌していた南朝宋は、江北(長江の北)の地を赤地とされ、これを境に衰退の一途を辿ることになった。 内政においては、宰相の崔浩を中心に漢族の諸侯を重用した。しかし、崔浩らの性急な漢化政策や、南朝に範をとった貴族制の採用に対して反発し、国史編纂上の問題を口実にして、450年には崔浩を族誅に処した。
451年、宦官の宗愛の讒言によって、結果的に帝の愛する皇太子の拓跋晃がショックのために病没するという事件が起こった。その断罪を恐れた宗愛によって、452年に太武帝は殺害された。宗愛は帝の末子の南安王拓跋余を擁立したが、早くも宗愛の跋扈に辟易した皇帝の南安王は、宗愛を誅殺する動向を見せたために、身の危険を感じた宗愛は先手を打って南安王を殺害した。その有様を見た尚書の陸麗・羽林郎中(近衛団長)の劉尼・殿中尚書の源賀(禿髪破羌)らが宗愛を逸早く誅殺して、亡き皇太子の嫡子である文成帝(拓跋濬)を即位させた。
북위 도무제, 북주 무제, 후주 세종
태무제(太武帝)중국 남북조시대 북위의 제3대 황제. 묘호는 세조(世祖). 시호는 태무제(太武帝). 휘는 도(燾).
북쪽의 유연, 동쪽의 북연, 서쪽의 북량과 북하, 남쪽의 유송 등 사방의 적대 제국들을 모두 정복 혹은 전쟁에서 이기고 화북을 통일하여 중국의 남북조시대를 열었던 북위 역사상 최고, 최강의 정복자 황제.