T2582_.82.0015a28: シメ。出路ニ一如ヲ行スルナリ。ソノ超關
T2582_.82.0015a29: 脱落ノトキ。コノ節目ニカカハランヤ。予
T2582_.82.0015b01: 發心求法ヨリコノカタ
宗門ノ正傳ニイハ
T2582_.82.0015c27: ク。コノ單傳正直ノ佛法ハ。最上ノナカ
T2582_.82.0015c28: ニ最上ナリ。參見知識ノハシメヨリ。サラ
T2582_.82.0015c29: ニ燒香禮拜念佛修懺看經ヲモチヰス。タ
T2582_.82.0016a01: タシ打坐シテ身心脱落スルコトヲエヨ。
T2582_.82.0016a02: モシ人一時ナリトイフトモ。三業ニ佛印
T2582_.82.0016a03: ヲ標シ。三昧ニ端坐スルトキ。遍法界ミナ
T2582_.82.0016a04: 佛印トナリ。盡虚空コトコトクサトリト
T2582_.82.0016a05: ナル。ユヱニ諸佛如來ヲシテハ本地ノ法
T2582_.82.0016a06: 樂ヲマシ。覺道ノ莊嚴ヲアラタニス。オヨ
T2582_.82.0016a07: ヒ十方法界三途六道ノ群類。ミナトモニ
T2582_.82.0016a08: 一時ニ身心明淨ニシテ。大解脱地ヲ證シ。
T2582_.82.0016a09: 本來面目現スルトキ。
T2582_.82.0011a24:(三)現成公案
蛻
蛻 [허물 세,허물 태]
1. 허물 2. 허물 벗다 3. 벗어버리다 4. 신선(神仙)이 되는 일 a. 허물 (태) b. 허물 벗다...
[부수]虫 (벌레훼) [총획] 13획
身心脱落
最終更新: turatura turatura 2007年07月11日(水) 15:56:47履歴
【定義】
①身心は身体と心。脱落はもぬけること。身体と心がもぬけること。曹洞宗の宗学では、坐禅している状態が、まさに身心脱落であるとする「坐禅時脱落」のこと。
②天童如浄禅師の下で、道元禅師が大悟徹底する機縁となった言葉。曹洞宗の宗学では「叱咤時脱落」と呼ばれる。
【内容】
身も心も、一切の束縛から離脱することであるが、その状況として「坐禅時脱落」と「叱咤時脱落」の二義性がある。後者については、一切の束縛から離脱しているため、大悟底の境界にいたることになる。
いはゆる道は地によりてたふるるものは、かならず地によりておく。地によらずしておきんことをもとむるは、さらにうべからずとなり。しかあるを挙拈して大悟をうるはしとし、身心をもぬくる道とせり。 『正法眼蔵』「恁麼」巻
道元禅師は天童如浄禅師の教示によって、参禅とは身心脱落であり、只管打坐をして大悟底に至ることとしてではなく、只管打坐こそ大悟底に他ならないと悟った。その状況は『三祖行業記』に以下のような問答として残されており、これが「叱咤時脱落」である。
天童五更坐禅、堂に入って巡堂して、衲子の坐睡を責めて云く「参禅は必ず身心脱落なり。祗管に打睡して什麼か作さん」と。師聞いて、豁然として大悟す。早晨に方丈に上って、焼香礼拝す。天童問うて云く「焼香の事、作麼生」と。師云く「身心脱落し来たる」と。天童云く「身心脱落、脱落身心」と。師云く「這箇は是、暫時の伎倆、和尚乱りに某甲を印すること莫れ」と。童云く「吾、乱りに你を印せず」と。師云く「如何なるか是、乱りに印せざる底」と。童云く「脱落身心」と。
道元禅師はこの「身心脱落話」を自らの説法や著作で縦横無尽に用いている。そこでは、身心脱落は只管打坐とともに用いられ、坐禅そのものが身心脱落であることが指摘されているが、これを「坐禅時脱落」という。
先師古仏云く、参禅は、身心脱落なり。祇管に打坐して始めて得べし。焼香・礼拝・念仏・修懺・看経を要いず。あきらかに仏祖の眼睛を抉出しきたり。仏祖の眼睛裏に打坐すること、四五百年よりこのかたは、ただ先師ひとりなり。震旦国に斉肩すくなし。打坐の仏法なること、仏法は打坐なることをあきらめたるまれなり。たとひ打坐を仏法と体解すといふとも、打坐を打坐としれるいまだあらず。いはんや仏法を仏法と保任するあらんや。 『正法眼蔵』「三昧王三昧」巻
参禅の実態は、只管打坐によって知られるが、その内容が身心脱落なのである。坐禅はまさに仏法であるが、この両者の連関は、外的な観察者によって知られることはない。あくまでも、実践者だけが知るのである。また瑩山禅師は身心脱落について、以下のように提唱を行っている。
学道は心意識を離るべしと云ふ。是れ身心と思ふべきに非ず。更に一段の霊光、歴劫長堅なるあり。子細に熟看して必ずや到るべし。若し此心を明らめ得ば、身心の得来るなく、敢て物我の携へ来るなし。故に曰ふ身心も脱け落つと。此に到りて熟見するに、千眼を回し見るとも、微塵の皮肉骨髄と称すべきなく、心意識と分くべきなし。如何が冷暖を知り、如何が痛痒を弁まへん。何をか是非し、何をか憎愛せん。故に曰ふ、見るに一物なしと。此処に承当せしを、即ち曰ふ、身心脱落し来ると。 『伝光録』第51章・道元禅師章
ここからすれば、身心そのものを自己に対して現象させていく「此心」について得るところが有れば、それで身心へのとらわれが無くなり、何物をも呼んだり、分別したりする事象がないと明記されている。これは事象の否定ではなく、それらに自己からの働きかけが及ばないことを意味しているのである。身心脱落とは、まさに世界の定義付けのやり直しに値する経験である。
【問題点】
①この「身心脱落」が、如浄禅師の語録に見えないため本当に言ったかは語録からは明らかにならない。一方で「心塵脱落」があったため、この両者を聞き間違いではないかとする学説が流行した。なお、道元禅師は如浄禅師が「身心脱落」について様々な機会に説示していたことを指摘している。
先師、よのつねに衆にしめしていはく、参禅者心身脱落也、不是待悟為則。この道得は、上堂の時は、法堂の上にしてしめす、十方の雲水、あつまりきく。小参の時は、寝堂〈裏にして〉道す、諸方衲子、みなきくところなり。夜間は、雲堂裏にして拳頭と同時に霹靂す。睡者も聞、不睡者も聞。夜裏も道す、日裏も道す。しかあれども、〈知音〉まれなり、為問すくなし。 『正法眼蔵』「大悟」巻草稿本
ただ、この一文は草稿本という下書きにのみ示されているため、実際の状況については、良く分からないとすべきである。また、そもそも『如浄禅師語録』は「広録」と違った「略録」であるため、「載っていない=言わなかった」とは、やや邪推に過ぎるように思われる。
「載っていない」事について、如浄禅師が言わず道元禅師が「心塵脱落」を聞き間違ったとする見解と、如浄禅師が言っていたのに語録に載らなかったとする見解とは、論理的にはどちらの方が優位と言うことはない。あとは、道元禅師の言葉を信じるかどうかということになろう。
②先に挙げた「身心脱落話」については、道元禅師自身の言葉ではなくて、あくまでも後代の伝記資料の記述であるため、本当に「叱咤時脱落」なるものがあったかどうかについて、宗学上議論もあった。特に、道元禅師が、大悟を得る宗風を強調した臨済宗楊岐派の大慧宗杲を批判し、自らは黙照禅の系譜になる宏智正覚を古仏と尊んだことなどからも、大悟の経験自体が否定されたのではないかという議論もあった。
しかしながら、道元禅師は「待悟為則」という修証否定の論理を否定したのであり、大悟経験の否定を行ったことは文献上ただの一度もないはずである。よって、伝統宗学と呼ばれる研究方法を採った一部の学者が、待悟為則と大悟という両者の区別が出来なかったことによる誤謬であった可能性が高い。さらには、以下の説法もあるため、「叱咤時脱落」とは、まず事実だったのだろう。
汝等、諸上座、瞿曇比丘の因由を知らんと要すや。一には天童の脱落話を聞得するに由って成仏道す。二には大仏拳頭力、諸人眼睛裏に入ることを得るに由る。 『永平広録』巻2-136上堂
また、本来悟れる者が、さらに修行をしていく本証妙修の論理にも合わないとされているが、以下の言葉などから、それも容易に解消されてしまう。
一人悟道すれば、自類他類一同に悟道す。一朝悟道すれば、前身後身一同に悟道す。譬えば船橋の如し。自他共行す、道に達し道に通じ、東に向かい西に向かう、一時無滞にして倶に無礙なり。 『永平広録』巻1-52上堂

①身心は身体と心。脱落はもぬけること。身体と心がもぬけること。曹洞宗の宗学では、坐禅している状態が、まさに身心脱落であるとする「坐禅時脱落」のこと。
②天童如浄禅師の下で、道元禅師が大悟徹底する機縁となった言葉。曹洞宗の宗学では「叱咤時脱落」と呼ばれる。
【内容】
身も心も、一切の束縛から離脱することであるが、その状況として「坐禅時脱落」と「叱咤時脱落」の二義性がある。後者については、一切の束縛から離脱しているため、大悟底の境界にいたることになる。
いはゆる道は地によりてたふるるものは、かならず地によりておく。地によらずしておきんことをもとむるは、さらにうべからずとなり。しかあるを挙拈して大悟をうるはしとし、身心をもぬくる道とせり。 『正法眼蔵』「恁麼」巻
道元禅師は天童如浄禅師の教示によって、参禅とは身心脱落であり、只管打坐をして大悟底に至ることとしてではなく、只管打坐こそ大悟底に他ならないと悟った。その状況は『三祖行業記』に以下のような問答として残されており、これが「叱咤時脱落」である。
天童五更坐禅、堂に入って巡堂して、衲子の坐睡を責めて云く「参禅は必ず身心脱落なり。祗管に打睡して什麼か作さん」と。師聞いて、豁然として大悟す。早晨に方丈に上って、焼香礼拝す。天童問うて云く「焼香の事、作麼生」と。師云く「身心脱落し来たる」と。天童云く「身心脱落、脱落身心」と。師云く「這箇は是、暫時の伎倆、和尚乱りに某甲を印すること莫れ」と。童云く「吾、乱りに你を印せず」と。師云く「如何なるか是、乱りに印せざる底」と。童云く「脱落身心」と。
道元禅師はこの「身心脱落話」を自らの説法や著作で縦横無尽に用いている。そこでは、身心脱落は只管打坐とともに用いられ、坐禅そのものが身心脱落であることが指摘されているが、これを「坐禅時脱落」という。
先師古仏云く、参禅は、身心脱落なり。祇管に打坐して始めて得べし。焼香・礼拝・念仏・修懺・看経を要いず。あきらかに仏祖の眼睛を抉出しきたり。仏祖の眼睛裏に打坐すること、四五百年よりこのかたは、ただ先師ひとりなり。震旦国に斉肩すくなし。打坐の仏法なること、仏法は打坐なることをあきらめたるまれなり。たとひ打坐を仏法と体解すといふとも、打坐を打坐としれるいまだあらず。いはんや仏法を仏法と保任するあらんや。 『正法眼蔵』「三昧王三昧」巻
参禅の実態は、只管打坐によって知られるが、その内容が身心脱落なのである。坐禅はまさに仏法であるが、この両者の連関は、外的な観察者によって知られることはない。あくまでも、実践者だけが知るのである。また瑩山禅師は身心脱落について、以下のように提唱を行っている。
学道は心意識を離るべしと云ふ。是れ身心と思ふべきに非ず。更に一段の霊光、歴劫長堅なるあり。子細に熟看して必ずや到るべし。若し此心を明らめ得ば、身心の得来るなく、敢て物我の携へ来るなし。故に曰ふ身心も脱け落つと。此に到りて熟見するに、千眼を回し見るとも、微塵の皮肉骨髄と称すべきなく、心意識と分くべきなし。如何が冷暖を知り、如何が痛痒を弁まへん。何をか是非し、何をか憎愛せん。故に曰ふ、見るに一物なしと。此処に承当せしを、即ち曰ふ、身心脱落し来ると。 『伝光録』第51章・道元禅師章
ここからすれば、身心そのものを自己に対して現象させていく「此心」について得るところが有れば、それで身心へのとらわれが無くなり、何物をも呼んだり、分別したりする事象がないと明記されている。これは事象の否定ではなく、それらに自己からの働きかけが及ばないことを意味しているのである。身心脱落とは、まさに世界の定義付けのやり直しに値する経験である。
【問題点】
①この「身心脱落」が、如浄禅師の語録に見えないため本当に言ったかは語録からは明らかにならない。一方で「心塵脱落」があったため、この両者を聞き間違いではないかとする学説が流行した。なお、道元禅師は如浄禅師が「身心脱落」について様々な機会に説示していたことを指摘している。
先師、よのつねに衆にしめしていはく、参禅者心身脱落也、不是待悟為則。この道得は、上堂の時は、法堂の上にしてしめす、十方の雲水、あつまりきく。小参の時は、寝堂〈裏にして〉道す、諸方衲子、みなきくところなり。夜間は、雲堂裏にして拳頭と同時に霹靂す。睡者も聞、不睡者も聞。夜裏も道す、日裏も道す。しかあれども、〈知音〉まれなり、為問すくなし。 『正法眼蔵』「大悟」巻草稿本
ただ、この一文は草稿本という下書きにのみ示されているため、実際の状況については、良く分からないとすべきである。また、そもそも『如浄禅師語録』は「広録」と違った「略録」であるため、「載っていない=言わなかった」とは、やや邪推に過ぎるように思われる。
「載っていない」事について、如浄禅師が言わず道元禅師が「心塵脱落」を聞き間違ったとする見解と、如浄禅師が言っていたのに語録に載らなかったとする見解とは、論理的にはどちらの方が優位と言うことはない。あとは、道元禅師の言葉を信じるかどうかということになろう。
②先に挙げた「身心脱落話」については、道元禅師自身の言葉ではなくて、あくまでも後代の伝記資料の記述であるため、本当に「叱咤時脱落」なるものがあったかどうかについて、宗学上議論もあった。特に、道元禅師が、大悟を得る宗風を強調した臨済宗楊岐派の大慧宗杲を批判し、自らは黙照禅の系譜になる宏智正覚を古仏と尊んだことなどからも、大悟の経験自体が否定されたのではないかという議論もあった。
しかしながら、道元禅師は「待悟為則」という修証否定の論理を否定したのであり、大悟経験の否定を行ったことは文献上ただの一度もないはずである。よって、伝統宗学と呼ばれる研究方法を採った一部の学者が、待悟為則と大悟という両者の区別が出来なかったことによる誤謬であった可能性が高い。さらには、以下の説法もあるため、「叱咤時脱落」とは、まず事実だったのだろう。
汝等、諸上座、瞿曇比丘の因由を知らんと要すや。一には天童の脱落話を聞得するに由って成仏道す。二には大仏拳頭力、諸人眼睛裏に入ることを得るに由る。 『永平広録』巻2-136上堂
また、本来悟れる者が、さらに修行をしていく本証妙修の論理にも合わないとされているが、以下の言葉などから、それも容易に解消されてしまう。
一人悟道すれば、自類他類一同に悟道す。一朝悟道すれば、前身後身一同に悟道す。譬えば船橋の如し。自他共行す、道に達し道に通じ、東に向かい西に向かう、一時無滞にして倶に無礙なり。 『永平広録』巻1-52上堂
永平広録』と『正法眼蔵』に関する一考察―特に身心脱落をめぐって――
石島尚雄
『永平広録』と『正法眼蔵』に関する一考察―特に身心脱落をめぐって―― 石島尚雄
はじめに
石井修道氏は、『道元禅の成立史的研究』において、いわ
ゆる「叱咜時脱落」説を否定し「面授時脱落」説を主張す
る。しかし、「叱咜時脱落」説の是否はともかくとして、「面
授時脱落」説には疑問が残るのである。それは次の箇所を見
てみれば明らかである。『正法眼蔵面授』には、
道元、大宋宝慶元年乙酉五月一日、はじめて先師天童古仏を礼拝
面授す、やや堂奥を聴許せらる。(大久保道元禅師全集〈以下大
久保道全と略す〉上450)
とあり、『宝慶記』には、
2宝慶元年七月初二日、参方丈。…
15堂頭和尚示曰。参禅者身心脱落也。不用焼香礼拝念仏修懺看
経、祗管打坐而已。
拝問。身心脱落者何。
堂頭和尚示曰。身心脱落者、坐禅也。祗管坐禅時、離五欲、
除五蓋也。
拝問。若離五欲、除五蓋者、乃同教家之所談也。即為大
小両乗之行人者乎。
堂頭和尚示曰。祖師児孫、不可強嫌大小両乗之所説也。学
者若背如来之聖教、何敢仏祖之児孫者歟。…
32
…道元拝白、作麼生是得心柔軟。
和尚示。弁肯仏々祖々身心脱落、乃柔軟心也。…(大久保道全
下371〜384)
とあるからである。もし宝慶元年五月一日に「面授時脱落」
しているのならば、なぜ、2宝慶元年七月二日をはるかに下
る、15の問答のところで更に「身心脱落」のことを問うたの
か。ましてや、師(如浄)の説を理解できないで、更に「教家の所談と同じで、大小両乗の行人となるのではないか」と
的はずれな質問をしたことが理解に苦しむところである。つ
まり、「面授時脱落」説をとるかぎり、説明できないのであ
る。したがって、「面授」したときはまだ「身心脱落」して
いないと考えざるを得ない。
以上のように、時間的岨皓がある以上、「面授時脱落」説
は、つとに鏡島元隆氏のご指摘のとおり、否定されなければ
ならない(1)。
「身心脱落」の資料
ここにおいて、「身心脱落」の資料、特に「叱咜時脱落」
説を上げる資料を見ると、『三祖行業記』、『三大尊行状記』、
『伝光録』、『建撕記』、『如浄続録』、『御遺言記録』などが上
げられる。『如浄続録』は問題あるにしても、『三大尊行状
記』の道元伝は義介が書いたと思われる(2)。したがって、「叱
咤時脱落」説は、道元禅師(以下道元と省略)の直弟子の生存
しているころから成立していたことが分かる。更に、「永平
略録」を見ると、
日本元公禅師、裁海南来、直入其室、向心塵脱略処、喪尽
生涯、…景定甲子(一二六四)十一月旦、無外義遠書(春秋社版
道元禅師全集〈以下春道全と略す〉五、54)
とあり、道元が「身心脱落」で悟道したことは、無外義遠も
よく知るところであったことが看取されるであろう。
ところで、一方、目を転じて、『永平広録』や『正法眼蔵』
や『随聞記』等を見ると、いわゆる「叱咜時脱落」の話はあ
まり出てこない(3)。つまり、「身心脱落」の話は多くその例が
見られるのに対し、「叱咜時」についての例があまり見出す
ことが出来ないのである。そこで、次に「広録」及び「眼
蔵」の「身心脱落」を検討してみよう。
「弁道話」を見ると次の様にある。
宗門の正伝にいはく、この単伝正直の仏法は、最上のなかに最上
なり。参見知識のはじめより、さらに焼香礼拝念仏修懺看経をも
ちいず、ただし打坐して身心脱落することをえよ。もし人一時な
りといふとも、三業に仏印を標し、三昧に端坐するとき、遍法界
みな仏印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる。(大久保道全
上731)
この箇所においては、「身心脱落」と「さとり」は、等価
のものであることが看取される。しかも、「宗門の正伝にい
はくとあり、先師如浄から正伝を受けついでいるという自負
が看取できる。次に『現成公案』を見ると、
仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふ
は、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せ
らるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心、および佗
己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なとある。この中で、「万法に証せらるといふは、自己の身心、
および佗己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇なる
あり」というところを見ると、道元は「身心脱落」で悟って
いるのである。なぜなら、一度も悟ることなくして「悟迹の
休歇」などとうていできるはずがないのであるから。次に
『三昧王三昧』を見ると、
先師古仏云、参禅者身心脱落也、祗管打坐始得、不要焼香礼拝
念仏修懺看経。あきらかに仏祖の眼晴を抉出しきたり、仏祖の眼
晴裏に打坐すること、四五百年よりこのかたは、ただ先師ひとり
なり、震旦国に斉肩すくなし。打坐の仏法なることを、あきらめ
たるまれなり。たとひ打坐を仏法と体解すといふとも、打坐を打
坐としれる。いまだあらず、いはんや仏法を仏法と保任するあら
んや、(大久保道全上539〜540)
とある。ここは、先師如浄の言葉を推奨することを通して、
先師の「身心脱落」の真意を体解しているのは、我すなわち
道元その人であるということを言外に響かせていはしない
か。次に、『広録』四、三一八上堂を見ると、
318上堂。先師示衆云、参禅者身心脱落也。大衆、還要委恁
麼道理麼。良久云、端坐身心脱落、祖師鼻孔空華。正伝壁観三
昧、後代児孫説邪。(大久保道全下7)
とある。「端坐は身心脱落なり、祖師の鼻孔は空華なり」と
あるところを見ると「身心脱落」と「悟」が等価であるとこ
ろが見てとれる。次に『広録』六、四三二上堂を見ると、
432上堂。仏仏祖祖家風、坐禅弁道也。先師天童云、跏趺坐乃古仏
法也。参禅者身心脱落也。不要焼香礼拝念仏修懺看経、祗管打
坐始得。夫坐禅、乃第一莫瞳睡。雖是刹那須臾猛壮為先。(大
久保道全下109)
とあり、『如浄録』台州瑞岩寺語録に、
上堂。今朝九月初一。打板普請坐禅。第一切忌瞎睡。直下猛烈
為先。忽然爆破漆桶。豁如雲散秋天。劈脊棒迸胸拳。昼
夜方纔不可眠。虚空消殞更消殞。透過威音未朕前。(大正蔵四
八巻123b)
とあるところを見ると、道元の「夫坐禅、乃第一莫臆睡】
は、如浄ゆずりであることが、『如浄録』を見れば分かる。
更に如浄は、台州瑞岩寺のころから、坐禅の時に、眠らせな
いようにするため棒や拳を使ってたたいて起こしていたこと
が知られる。したがって、天童山にあっても、如浄が棒や拳
で打ちながら坐禅することを策励していたであろうことは十
分に推測される。ましてや、『正法眼蔵随聞記』三の、
また云、我、大宋天童禅院に居せし時、浄老住持の時は、宵は二
更の三点まで坐禅し、暁は四更の二点三点よりおきて坐禅す長老
ともに僧堂裏に坐す。一夜も闕怠なし。その間衆僧多く眼る。長
老巡り行て睡眠する僧をばあるは拳を以て打、あるいはくつをぬいで耻しめて睡りを覚す。(大久保道全下457)
とあるところをみると、道元は、如浄の策励する場面にしば
しぼ立会っていることが知られるのである(4)。したがって「叱
咤時脱落」の可能性はおおいにあるのである(5)。次に『広録』
八の「普勧坐禅儀」を見ると、「身心自然脱落、本来面目現
前」(大久保道全下165)とある。これは、「身心脱落」で悟った
ことを示唆してはいまいか。
以上、資料を概観してみたのであるが、ちなみに、「身心
脱落」について述べた、説示年代を調べると、次のようであ
る。「弁道話」、一二三一年八月十五日説示。「現成公案」、一
二三三年八月十五日説示。「三昧王三昧」、一二四四年二月十
五日説示。『広録』四、三一八上堂、一二四九年二月五日か
ら四月八日の間に説示。『広録』六、四三二上堂、一二五一
年四月八日から五月二十五日の間に説示。「普勧坐禅儀」、一
二二七年説示。してみると、道元は、帰国後まもなくから、
病気の為に上堂ができなくなる年、すなわち、一二五二年の
前年、すなわち、一二五一年四月〜五月までの間、つまり、
帰国後、その生涯に亘って、「身心脱落」の話を挙したこと
になる。これは、先師如浄の宗風を受け嗣ぐ機縁であったこ
とと同時に、道元みずからの悟境であったことを示すもので
はないのか。それでなければ生涯に亘ってとりあげるはずが
ないと思うが、如何がであろうか。
おわりに
石井修道氏は、『道元禅の成立史的研究』において、いわ
ゆる「叱咜時脱落」説を否定し「面授時脱落」説を主張す
る。しかし、『面授』の巻と『宝慶記』を両方見てみると、
「面授」したときまだ「身心脱落」していないと考えざるを
得ない。したがって、「面授時脱落」説は、今のところ否定
されなければならぬであろう。
他方、「叱咜時脱落」説を見てみると、その説を上げる資
料は、『三祖行業記』、『三大尊行状記』、『伝光録』、『建撕記』、
『如浄続録』、『御遺言記録』などがあげられる。『三大尊行状
記』の道元伝は義介が書いたと思われるから、「叱咜時脱落」
説は、古く道元の直弟子の生きているころからのものである
ことが分かる。
また、道元の著した『正法眼蔵』、『永平広録』等を見てみ
ると、「身心脱落」の話は、道元の帰国後まもなくからその
生涯に亘って挙されていることが看取される。これは、先師
如浄の宗風を受け嗣ぐ機縁であったことと同時に、道元みず
からの悟境であったことを示唆するものであるといえよう。
したがって「叱咜時脱落」の可能性はおおいにあるのであ
る
以
。
上、「面授時脱落」説は、物理的にも、その他の多くの資料とも矛盾するのに対し、「叱咜時脱落」説は多くの資料
と矛盾しない。したがって、私は、従来通りの「叱咜時脱
落」説で良いと思う。
1鏡島元隆、道元禅師とその周辺318参照。
2伊藤秀憲、『三大尊行状記』の成立について(印度学仏教学
研究34の1、S・60・12)
3この点に、関しては、いわゆる清書本についてのみであっ
て、草案本には次のようにある。すなわち、真福寺本「大悟」
には、「先師、よのつねに衆にしめしていはく、参禅者心身脱
落也、不是待悟為則…。この道得は、上堂の時は、法堂の上
してしめす、十方の雲水、あつまりきく。小参の時は、寝堂に
〈裏にして〉道す、諸方衲子、みなきくところなり。夜間は、
雲堂裏にして拳頭と同時に霹靂す。睡者も聞、不睡者も聞。夜
裏も道す、日裏も道す。しかあれども、〈知音〉まれなり、為
問すくなし。いはゆる、参禅〈者〉、といふは、仏仏祖道なり。
参禅の言、…者なるがゆへに、恁麼いふななり。心身脱落は、
脱落心身なり。脱落の脱落しきたれるがゆえに、身心脱落な
り。これ、大小.広狭の辺際にあらず。ここをもて、不是待悟
為則なり」(春道全二、609〈校註・河村孝道〉)とある。してみ
ると、『正法眼蔵』等の道元に関する第一資料においても、草
案本においては、「叱咜時脱落」説がおおいに検証されるので
あり、このことから、「面授時脱落」説は、誤謬性が高いと言
わざるを得ない。尚、これについては、伊藤秀憲、道元禅師の
在宋中の動静(駒大仏教学部研究紀要42、S・59・3、97〜
124)
参照。
4『正法眼蔵随聞記』三(水野弥穂子訳、筑摩叢書5、l46〜l49
参照)に、『またある時近仕の侍者等云く、「僧堂裡の衆僧眠り
つかれ、あるイは病も発り、退心も起りつべし。坐久シき故歟。
坐禅の時尅を縮らればや。」と申シければ、長老大イに諫めて
云ク、「然ルベカラず。無道心の者、仮名に僧堂に居するは、
半時片時なりともなほ眠ルベシ。道心あッツて修行の志あらん
は、長からんにつけ喜び修せんずるなり。我レ若かりし時、諸
方ノ長老を歴観せしに、是ノごとクすすめて眠る僧をば拳のか
けなんとするほど打チせめしなり。今は老後になりて、よわく
なりて、人をも打得せざるほどに、よき僧も出来らざるなり。
諸方の長老も坐を緩くすすむる故に、仏法は衰微せるなり。弥
々打ッベキなり。」とのみ示サれしなり。』とある。
5「身心脱落」の時期については、伊藤秀憲、道元禅師の在宋
中の動静、(前掲l10〜1l)参照。
〈キーワード〉身心脱落、叱咜時脱落、面授時脱落
(曹洞宗宗学研究所研究員、法泉寺住職
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/43/1/43_1_121/_pdf