- 1.
- 2.
『天平の甍』(てんぴょうのいらか)
井上 靖(いのうえ やすし、1907年(明治40年)5月6日 - 1991年(平成3年)1月29日)は、日本の小説家。文化功労者、文化勲章受章。
『天平の甍』(てんぴょうのいらか)は、井上靖の歴史小説。初刊は中央公論社で1957年12月に刊行(現・新潮文庫、改版2005年)。作者は訪中後に加筆している。芸術選奨受賞作。
遣唐使(第9次)で大陸に渡った留学僧たち。高僧を招くという使命を受け、後に鑒眞と会う普照と栄叡を軸とした若い留学僧たちの運命を描く。
普照(ふしょう、生没年不詳)は、奈良時代の僧。母は白猪与呂志(しらいのよろし)の娘。
人物・生涯[編集]
当初興福寺に住し、天平5年(733年)に出家者に正しい戒を授けるための伝戒師を招請するため栄叡とともに唐に渡った。洛陽大福先寺で具足戒を授けられ、道璿に来日を促した。唐に滞在すること10年目にして揚州大明寺の鑑真に拝謁して日本への渡航を要請し、天平勝宝6年(754年)、鑑真に従って日本へ戻った後、東大寺に住し、天平宝字3年(759年)には旅をする人の飢えを癒すため京外の街道に果樹を植えることを奏上した。苦楽を共にした栄叡とは親友同士であり、栄叡を看取ったのも普照である。栄叡が亡くなった時酷く号泣したと伝わる。その後、奈良西大寺の大鎮を務めた。没年は不明。
なお、平間寺の第31世貫主を「普照」という僧が務めているが、活動した時代が全く異なり、別人である。
関連項目[編集]
- 天平の甍 - 普照を主人公とした井上靖の小説、および映画(1980年、演:中村嘉葎雄)
- 鑑真東渡 - 井上靖の小説をもとに制作された鑑真、普照を主人公とした中国中央電視台の連続テレビドラマ(2007年、演:梶岡潤一)
榮叡(ようえい、生年未詳 - 749年)は、奈良時代の法相宗の僧[1][2]。美濃国の出身。
生涯・人物[編集]
興福寺に住して法相教学を学び、733年に出家者に正式な戒を授けるための伝戒師を招請するため、普照とともに唐へ渡った。唐では洛陽大福先寺で具足戒を受け、道璿に来日を要請した。唐にとどまること10年目にして揚州大明寺の鑑眞に拝謁し、改めて日本へ渡ることを要請した。鑑眞は渡航することを決意し、数次にわたり渡航を決行したが失敗し、6度目にしてようやく日本へ渡ることができた。しかし、この間に榮叡は、749年に病を得て端州龍興寺で死去した。苦楽を共にした普照とは親友同士であり、榮叡の最期を看取ったのも普照である。榮叡が亡くなった際に、普照は我を忘れて号泣したと伝わる。
脚注[編集]
- ^ 第2版,世界大百科事典内言及, デジタル版 日本人名大辞典+Plus,世界大百科事典. “栄叡(ようえい)とは” (日本語). コトバンク. 2019年3月17日閲覧。
- ^ “岐阜県仏教会HP 栄叡大師”. bukkyogifu.net. 2019年3月17日閲覧。
甍
용마루 맹
부수瓦 (기와와, 5획)획수총16획
[사성음] méng (méng) [난이도] 인명용
1. 용마루(龍--: 지붕 가운데 부분에 있는 가장 높은 수평 마루)
2. 용마루 기와
3. 수키와(두 암키와 사이를 엎어 잇는 기와)
4. 대마루
鴟 [올빼미 치]
1. 올빼미(올빼밋과의 새) 2. 수리부엉이(올빼밋과의 새) 3. 솔개(수릿과의 새) 4. 술...
甍
용마루 맹
1. 용마루(龍--: 지붕 가운데 부분에 있는 가장 높은 수평 마루) 2. 용마루 기와 3. 수키와(두 암키와 사이를 엎어 잇는 기와) 4. 대마루 5. 싹트다
『天平の甍』(てんぴょうのいらか)は、井上靖の歴史小説。初刊は中央公論社で1957年12月に刊行(現・新潮文庫、改版2005年)。作者は訪中後に加筆している。芸術選奨受賞作。
遣唐使(第9次)で大陸に渡った留学僧たち。高僧を招くという使命を受け、後に鑒眞と会う普照と栄叡を軸とした若い留学僧たちの運命を描く。
目次
1 映画
1.1 スタッフ
1.2 キャスト
2 舞台
3 脚注
4 関連項目
5 外部リンク
映画
天平の甍
監督 熊井啓
脚本 依田義賢
原作 井上靖
製作 佐藤一郎
金原文雄
磯野理
遠藤雅也
ナレーター 城達也
出演者 中村嘉葎雄
大門正明
田村高廣
音楽 武満徹
撮影 姫田真佐久
編集 小川信夫
製作会社 「天平の甍」製作委員会
配給 東宝
公開 日本の旗 1980年1月26日
上映時間 152分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
配給収入 11億5000万円[1]
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1980年1月26日に公開された。製作は芸苑社、配給は東宝。
熊井啓監督が1957年の小説連載開始から映画化を企画していたおり、ねばり強い中国ロケ折衝が実り[2]、非常に困難だった中国ロケの戦後一番乗りを勝ち取った[2][3]。最初に1979年6月下旬から8月まで、蘇州などで中国側から全面協力を得てロケをスムーズに行い[4]、同年10月から再び中国ロケを行った[4]。
スタッフ
監督:熊井啓
脚本:依田義賢
音楽:武満徹
撮影:姫田真佐久
美術:木村威夫
録音:吉田庄太郎
編集:小川信夫
監督補佐:小笠原清
助監督:小倉洋二、松井稔、鈴木康敬、吉川威史
製作者:佐藤一郎、金原文雄、磯野理、遠藤雅也
協力:東宝美術、東宝映像、東宝効果集団、東宝録音センター
現像:東洋現像所
製作協力:日本中国文化交流協会、中華人民共和国文化部、東京放送、東宝、北京映画制作所、上海映画制作所、西安映画制作所
キャスト
普照:中村嘉葎雄
栄叡:大門正明
玄朗:浜田光夫
戒融:草野大悟
鑒眞:田村高廣
業行:井川比佐志
景雲:常田富士男
平郡郎女:藤真利子
与呂志女:高峰三枝子
小芳:吉田日出子
吉備真備:梅野泰靖
阿倍仲麻呂:高橋幸治
藤原清河:高野真二
大伴古麻呂:出水憲司
隆尊:志村喬
良弁:滝沢修
道抗:陶隆司
思託:町田博
祥彦:井上昭文
善尊:鶴田忍
陰陽師:三笑亭笑三
張警備隊長:沼田曜一
李船長:汐路章
水夫:横山あきお、砂塚秀夫
その他:草薙幸二郎、島本須美、平野稔 ほか
踊り:山崎啓子(松山バレエ団)
ナレーション:城達也
舞台
前進座が舞台化している。依田義賢:脚色、十島英明:演出[5]、河原崎長十郎[要曖昧さ回避]、嵐圭史など。
脚注
[ヘルプ]
^ 1980年配給収入10億円以上番組 - 日本映画製作者連盟
^ a b 河原一邦「話題の邦画BIG15を特別誌上公開!」『ロードショー』1979年8月号、集英社、 246頁。
^ 二代目襲名を固辞しつつ 父バンツマを敬愛し続けた田村高廣 | シネマズby松竹
^ a b 河原一邦「邦画マンスリー」『ロードショー』1979年11月号、集英社、 233頁。
^ 2018年5月1日中日劇場(中日新聞文化芸能局)発行「中日劇場全記録」
関連項目
唐招提寺
外部リンク
天平の甍 - allcinema
天平の甍 - KINENOTE
天平の甍のチラシ - ぴあ
天平(てんぴょう、旧字体: 天平?)は、日本の元号の一つ。神亀の後、天平感宝の前。729年から749年までの期間を指す。この時代の天皇は聖武天皇。
奈良時代の最盛期にあたるため、東大寺、唐招提寺などに残るその時代の文化を天平文化と呼ぶことが多い。
改元[編集]
天平期におきた事件[編集]
- 元年(729年)
- 2年(730年)
- 9月、諸国の防人を停止する。
- 3年(731年)
- 5年(733年)
- 6年(734年)
- 7年(735年)
- 8年(736年)
- 9年(737年)
- 10年(738年)
- 12年(740年)
- 5月、聖武天皇 (40) が相楽にある橘諸兄 (57) の別荘へ行き、宴会で諸兄の息子橘奈良麻呂 (20) に従五位下を授ける。
- 8月29日、大宰府の藤原広嗣が、国政を批判し、玄昉と下道真備を排除するよう求める上表をする(=藤原広嗣の乱)
- 9月3日、広嗣の上表が謀叛と断じられ、大野東人が大将軍として1万7千人の兵を率いて征討に向かう。
- 10月19日、旅行のため伊勢国に仮宮を造るよう天皇が命令する。
- 10月23日、逃亡中の広嗣やその弟藤原綱手が五島列島で逮捕される。
- 10月26日、「思うところあって関東に行く。そのような時ではないが仕方の無いことである」との勅が天皇から大野東人に発せられる。
- 10月29日、天皇、皇后、元正上皇 (61)、諸兄らとともに平城京を出発する。
- 14年(742年)、大宰府廃止
- 15年(743年)5月27日、墾田永年私財法施行
- 15年10月15日、大仏建立の詔
- 20年(748年)
- 元正上皇 (69) が崩御する。
- 21年(749年)
西暦との対照表[編集]
※は小の月を示す。
天平元年(己巳) | 一月 | 二月※ | 三月 | 四月※ | 五月 | 六月 | 七月※ | 八月※ | 九月 | 十月※ | 十一月 | 十二月※ | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ユリウス暦 | 729/2/3 | 3/5 | 4/3 | 5/3 | 6/1 | 7/1 | 7/31 | 8/29 | 9/27 | 10/27 | 11/25 | 12/25 | |
天平二年(庚午) | 一月 | 二月※ | 三月 | 四月 | 五月※ | 六月 | 閏六月※ | 七月 | 八月※ | 九月 | 十月※ | 十一月 | 十二月※ |
ユリウス暦 | 730/1/23 | 2/22 | 3/23 | 4/22 | 5/22 | 6/20 | 7/20 | 8/18 | 9/17 | 10/16 | 11/15 | 12/14 | 731/1/13 |
天平三年(辛未) | 一月 | 二月※ | 三月 | 四月※ | 五月 | 六月※ | 七月 | 八月 | 九月※ | 十月 | 十一月※ | 十二月 | |
ユリウス暦 | 731/2/11 | 3/13 | 4/11 | 5/11 | 6/9 | 7/9 | 8/7 | 9/6 | 10/6 | 11/4 | 12/4 | 732/1/2 | |
天平四年(壬申) | 一月※ | 二月 | 三月※ | 四月※ | 五月 | 六月 | 七月※ | 八月 | 九月 | 十月※ | 十一月 | 十二月 | |
ユリウス暦 | 732/2/1 | 3/1 | 3/31 | 4/29 | 5/28 | 6/27 | 7/27 | 8/25 | 9/24 | 10/24 | 11/22 | 12/22 | |
天平五年(癸酉) | 一月※ | 二月 | 三月※ | 閏三月※ | 四月※ | 五月 | 六月※ | 七月 | 八月 | 九月※ | 十月 | 十一月 | 十二月※ |
ユリウス暦 | 733/1/21 | 2/19 | 3/21 | 4/19 | 5/18 | 6/16 | 7/16 | 8/14 | 9/13 | 10/13 | 11/11 | 12/11 | 734/1/10 |
天平六年(甲戌) | 一月 | 二月※ | 三月 | 四月※ | 五月※ | 六月 | 七月※ | 八月 | 九月※ | 十月 | 十一月 | 十二月 | |
ユリウス暦 | 734/2/8 | 3/10 | 4/8 | 5/8 | 6/6 | 7/5 | 8/4 | 9/2 | 10/2 | 10/31 | 11/30 | 12/30 | |
天平七年(乙亥) | 一月※ | 二月 | 三月※ | 四月 | 五月※ | 六月※ | 七月 | 八月※ | 九月 | 十月※ | 十一月 | 閏十一月 | 十二月※ |
ユリウス暦 | 735/1/29 | 2/27 | 3/29 | 4/27 | 5/27 | 6/25 | 7/24 | 8/23 | 9/21 | 10/21 | 11/19 | 12/19 | 736/1/18 |
天平八年(丙子) | 一月 | 二月 | 三月※ | 四月 | 五月※ | 六月※ | 七月 | 八月※ | 九月 | 十月※ | 十一月 | 十二月※ | |
ユリウス暦 | 736/2/16 | 3/17 | 4/16 | 5/15 | 6/14 | 7/13 | 8/11 | 9/10 | 10/9 | 11/8 | 12/7 | 737/1/6 | |
天平九年(丁丑) | 一月 | 二月 | 三月 | 四月※ | 五月 | 六月※ | 七月※ | 八月 | 九月※ | 十月 | 十一月※ | 十二月 | |
ユリウス暦 | 737/2/4 | 3/6 | 4/5 | 5/5 | 6/3 | 7/3 | 8/1 | 8/30 | 9/29 | 10/28 | 11/27 | 12/26 | |
天平十年(戊寅) | 一月※ | 二月 | 三月 | 四月※ | 五月 | 六月※ | 七月 | 閏七月※ | 八月 | 九月※ | 十月 | 十一月※ | 十二月 |
ユリウス暦 | 738/1/25 | 2/23 | 3/25 | 4/24 | 5/23 | 6/22 | 7/21 | 8/20 | 9/18 | 10/18 | 11/16 | 12/16 | 739/1/14 |
天平十一年(己卯) | 一月※ | 二月 | 三月※ | 四月 | 五月 | 六月※ | 七月 | 八月※ | 九月 | 十月※ | 十一月 | 十二月※ | |
ユリウス暦 | 739/2/13 | 3/14 | 4/13 | 5/12 | 6/11 | 7/11 | 8/9 | 9/8 | 10/7 | 11/6 | 12/5 | 740/1/4 | |
天平十二年(庚辰) | 一月 | 二月※ | 三月 | 四月※ | 五月 | 六月※ | 七月 | 八月 | 九月※ | 十月 | 十一月※ | 十二月 | |
ユリウス暦 | 740/2/2 | 3/3 | 4/1 | 5/1 | 5/30 | 6/29 | 7/28 | 8/27 | 9/26 | 10/25 | 11/24 | 12/23 | |
天平十三年(辛巳) | 一月※ | 二月 | 三月※ | 閏三月※ | 四月 | 五月※ | 六月 | 七月 | 八月※ | 九月 | 十月 | 十一月※ | 十二月 |
ユリウス暦 | 741/1/22 | 2/20 | 3/22 | 4/20 | 5/19 | 6/18 | 7/17 | 8/16 | 9/15 | 10/14 | 11/13 | 12/13 | 742/1/11 |
天平十四年(壬午) | 一月※ | 二月 | 三月※ | 四月※ | 五月 | 六月※ | 七月 | 八月※ | 九月 | 十月 | 十一月 | 十二月※ | |
ユリウス暦 | 742/2/10 | 3/11 | 4/10 | 5/9 | 6/7 | 7/7 | 8/5 | 9/4 | 10/3 | 11/2 | 12/2 | 743/1/1 | |
天平十五年(癸未) | 一月 | 二月※ | 三月 | 四月※ | 五月※ | 六月 | 七月※ | 八月 | 九月※ | 十月 | 十一月 | 十二月 | |
ユリウス暦 | 743/1/30 | 3/1 | 3/30 | 4/29 | 5/28 | 6/26 | 7/26 | 8/24 | 9/23 | 10/22 | 11/21 | 12/21 | |
天平十六年(甲申) | 一月※ | 閏一月 | 二月※ | 三月 | 四月※ | 五月※ | 六月 | 七月※ | 八月※ | 九月 | 十月 | 十一月※ | 十二月 |
ユリウス暦 | 744/1/20 | 2/18 | 3/19 | 4/17 | 5/17 | 6/15 | 7/14 | 8/13 | 9/11 | 10/10 | 11/9 | 12/9 | 745/1/7 |
天平十七年(乙酉) | 一月 | 二月 | 三月※ | 四月 | 五月※ | 六月※ | 七月 | 八月※ | 九月※ | 十月 | 十一月 | 十二月※ | |
ユリウス暦 | 745/2/6 | 3/8 | 4/7 | 5/6 | 6/5 | 7/4 | 8/2 | 9/1 | 9/30 | 10/29 | 11/28 | 12/28 | |
天平十八年(丙戌) | 一月 | 二月 | 三月※ | 四月 | 五月 | 六月※ | 七月※ | 八月 | 九月※ | 閏九月 | 十月※ | 十一月 | 十二月※ |
ユリウス暦 | 746/1/26 | 2/25 | 3/27 | 4/25 | 5/25 | 6/24 | 7/23 | 8/21 | 9/20 | 10/19 | 11/18 | 12/17 | 747/1/16 |
天平十九年(丁亥) | 一月 | 二月※ | 三月 | 四月 | 五月※ | 六月 | 七月※ | 八月 | 九月※ | 十月 | 十一月※ | 十二月 | |
ユリウス暦 | 747/2/14 | 3/16 | 4/14 | 5/14 | 6/13 | 7/12 | 8/11 | 9/9 | 10/9 | 11/7 | 12/7 | 748/1/5 | |
天平二十年(戊子) | 一月※ | 二月 | 三月※ | 四月 | 五月※ | 六月 | 七月 | 八月※ | 九月 | 十月※ | 十一月 | 十二月※ | |
ユリウス暦 | 748/2/4 | 3/4 | 4/3 | 5/2 | 6/1 | 6/30 | 7/30 | 8/29 | 9/27 | 10/27 | 11/25 | 12/25 | |
天平二十一年(己丑) | 一月 | 二月※ | 三月※ | 四月 | 五月 | 閏五月※ | 六月 | 七月※ | 八月 | 九月 | 十月※ | 十一月 | 十二月※ |
ユリウス暦 | 749/1/23 | 2/22 | 3/23 | 4/21 | 5/21 | 6/20 | 7/19 | 8/18 | 9/16 | 10/16 | 11/15 | 12/14 | 750/1/13 |
関連項目[編集]
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神亀(じんき、しんき、旧字体: 神?龜)は、日本の元号の一つ。養老の後、天平の前。724年から729年までの期間を指す。この時代の天皇は聖武天皇。
孝謙天皇
孝謙天皇 称徳天皇 | |
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元号 | 孝謙天皇 天平勝宝 天平宝字 称徳天皇 天平宝字 天平神護 神護景雲 |
時代 | 奈良時代 |
先代 | 聖武天皇(第45代) |
次代 | 淳仁天皇(第47代) 光仁天皇(第49代) |
誕生 | 718年 |
崩御 | 770年8月28日 平城宮西宮寝殿 |
陵所 | 高野陵 |
漢風諡号 | 孝謙天皇(第46代) 称徳天皇(第48代) |
和風諡号 | 高野姫天皇 |
諱 | 阿倍 |
別称 | 宝字称徳孝謙皇帝 高野天皇 倭根子天皇 |
父親 | 聖武天皇 |
母親 | 光明皇后 |
皇配 | なし |
子女 | なし |
皇居 | 孝謙:平城宮 称徳:平城宮 |
女帝。孝謙天皇が重祚して称徳天皇。 |
孝謙天皇(こうけんてんのう)、重祚して称徳天皇(しょうとくてんのう;稱德天皇、718年(養老2年) - 770年8月28日(神護景雲4年8月4日))は、日本の第46代・第48代天皇。
孝謙天皇としての在位期間は、749年8月19日(天平勝宝元年7月2日) - 758年9月7日(天平宝字2年8月1日)。
称徳天皇としての在位期間は、764年11月6日(天平宝字8年10月9日) - 770年8月28日(神護景雲4年8月4日)。
父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后(光明子)。即位前の名は「阿倍内親王」。生前に「宝字称徳孝謙皇帝」の尊号が贈られている。『続日本紀』では終始「高野天皇」と呼ばれており、ほかに「高野姫天皇」「倭根子天皇(やまとねこのすめらみこと)」とも称された。
史上6人目の女帝で、天武系からの最後の天皇である。この称徳天皇以降は、江戸時代初期に即位した第109代明正天皇(在位:1629年 - 1643年)に至るまで、850余年、女帝が立てられることはなかった。
略歴[ソースを編集]
皇太子[ソースを編集]
聖武天皇と光明皇后の間にはついに男子が育たず(基王は早世)、阿倍内親王のみであった。聖武天皇と県犬養広刀自との間には安積親王が生まれたが、後ろ盾を持たなかったため即位は望み薄であり、天平10年1月13日(738年2月6日)に阿倍内親王が立太子し、史上唯一の女性皇太子となった。天平15年(743年)5月5日には元正上皇の御前で五節舞を披露している。
天平17年(744年)に安積親王が没し、聖武天皇の皇子はいなくなった。直後に聖武天皇が倒れて重態に陥った際、橘奈良麻呂は「皇嗣(皇位継承者)が立っていない」と黄文王を擁立する動きを見せている。当時の女帝は全て独身(未婚か未亡人)であり、阿倍内親王が即位してもその次の皇位継承の見通しが立たず、彼女に代わる天皇を求める動きが彼女の崩御後まで続くことになった。
孝謙天皇としての治世[ソースを編集]
天平勝宝元年(749年)に父・聖武天皇の譲位により即位した。治世の前期は皇太后(光明皇后)が後見し、皇后宮を改組した紫微中台の長官で皇太后の甥にあたる藤原仲麻呂の勢力が急速に拡大した。天平勝宝8歳(756年)5月2日に父の聖武上皇が崩御し、新田部親王の子である道祖王を皇太子とする遺詔を残した。しかし翌天平勝宝9歳(757年)3月、孝謙天皇は皇太子にふさわしくない行動があるとして道祖王を廃し、自身の意向として舎人親王の子大炊王を新たな皇太子とした。この更迭劇には孝謙天皇と仲麻呂の意向が働いたものと考えられている[1]。強まる仲麻呂の権勢にあせった橘奈良麻呂や大伴古麻呂らは、孝謙天皇を廃して新帝を擁立するクーデターを計画した。しかし事前に察知した仲麻呂により、関係者は同年5月に粛清された(橘奈良麻呂の乱)。以降仲麻呂の権勢はさらに強まった。
上皇時代[ソースを編集]
天平宝字2年(758年)8月1日、孝謙天皇は病気の光明皇太后に仕えることを理由に[2]大炊王(淳仁天皇)に譲位した。この日、孝謙上皇には「宝字称徳孝謙皇帝」、光明皇太后には「天平応真仁正皇太后」の尊号が贈られている。また、尊称として孝謙上皇には「上䑓」、光明皇太后には「中䑓」が用いられているが、「上䑓」は中国南朝・隋・唐においては皇帝およびその機関に対する尊称であった[3]。「皇帝」や「上䑓」の称号は政権担当者である藤原仲麻呂の単なる唐風趣味ではなく、新天皇の正当性の保証者としての役割を大炊王および仲麻呂から期待されていたとみられている[4]。仲麻呂は大炊王から「藤原恵美朝臣」の姓と「押勝」の名が与えられ、藤原恵美押勝と称するようになり、貨幣鋳造権も与えられている。仲麻呂は官庁を唐風に改名する(官職の唐風改称)など、さらに権勢を振るうようになった。
天平宝字3年(759年)、光明皇太后が淳仁天皇の父・舎人親王に尊号を贈ることを提案した。淳仁天皇は孝謙上皇に相談すると、上皇は皇太后に対して辞退する奏上を行うよう助言をしている[5]。結局、皇太后が再三説得し、舎人親王に「崇道尽敬皇帝」の尊号を贈ることになったが、このことは孝謙上皇の影響力の大きさを明示したものとなった[6]。天平宝字4年(760年)1月4日、仲麻呂は太師(太政大臣)に任命されているが、その際も孝謙上皇が淳仁天皇や百官が同席する場で突然口頭でその旨を宣言し、淳仁天皇が追認の形で正式な任命手続を取った。孝謙上皇は律令上は大臣任命の権限はないものの淳仁天皇が直ちにそれを認めたことで、孝謙上皇の影響力の大きさを明示するとともに仲麻呂にとっても光明皇太后亡き後も上皇と天皇からの二重の信任を受けていることを明示する意味合いを持っていた[7]。
天平宝字4年(760年)7月16日に光明皇太后が崩御すると、孝謙上皇と仲麻呂・淳仁天皇の関係は微妙なものとなった。同年8月に孝謙上皇・淳仁天皇らは小治田宮に移り、天平宝字5年(761年)には保良宮に移った。ここで病に伏せった孝謙上皇は、看病に当たった弓削氏の僧・道鏡を寵愛するようになった。天平宝字6年(762年)5月23日(6月23日)に淳仁天皇は平城宮に戻ったが、孝謙は平城京に入らず法華寺に住居を定めた。ここに「高野天皇、帝と隙あり」と続日本紀が記す孝謙上皇と淳仁天皇・仲麻呂の不和が表面化した。6月3日に孝謙上皇は五位以上の官人を呼び出し、淳仁天皇が不孝であることをもって仏門に入って別居することを表明し、さらに国家の大事である政務を自分が執ると宣言した[8]。不和の原因は道鏡を除くよう淳仁天皇と仲麻呂が働きかけた事や、皇統の正嫡意識を持つ孝謙上皇が淳仁天皇に不満を持ったことなどあげられている[9][10]。
天平宝字7年(763年)から天平宝字8年(764年)には道鏡や吉備真備といった孝謙派が要職に就く一方で、仲麻呂の子達が軍事的要職に就くなど、孝謙上皇と淳仁天皇・仲麻呂の勢力争いが水面下で続いた[11]。
藤原仲麻呂の乱[ソースを編集]
天平宝字8年(764年)9月11日、仲麻呂が軍事準備を始めた事を察知した孝謙上皇は、山村王を派遣して淳仁天皇の元から軍事指揮権の象徴である鈴印を回収させた。これを奪還しようとした仲麻呂側との間で戦闘が起きたが、結局鈴印は孝謙上皇の元に渡り、仲麻呂は朝敵となった。仲麻呂は太政官印を奪取して近江国に逃走したが、9月13日に殺害された。
仲麻呂敗死の知らせが届いた9月14日には左遷されていた藤原豊成を右大臣とし、9月20日には道鏡を大臣禅師とした。さらに9月22日には仲麻呂によって変えられた官庁名を旧に復し、10月9日には淳仁天皇を廃して大炊親王とし、淡路公に封じて流刑とした[12]。
重祚:称徳天皇としての治世[ソースを編集]
淳仁天皇の廃位によって孝謙上皇は事実上、皇位に復帰した。後世では孝謙上皇が重祚したとして、これ以降は称徳天皇と呼ばれる。日本史上唯一の、出家のままで即位した天皇である[13]。以降、称徳天皇と道鏡による政権運営が6年間にわたって続く事になるが、皇太子はふさわしい人物が現れるまで決められない事とした。
天平神護元年(765年)に飢饉や和気王の謀叛事件が起きるなど、乱後の政情は不安定であった。同年10月に称徳天皇は道鏡の故郷である河内弓削寺に行幸した。この弓削行幸中に道鏡を太政大臣禅師に任じ、本来臣下には行われない群臣拝賀を道鏡に対して行わせた。またこの際の行宮を拡張し、由義宮の建設を開始している。一方でほぼ同じ時期に淡路で廃帝・淳仁が変死を遂げている。11月には天皇即位とともに行われる大嘗会を行ったが、本来参加しない僧侶が出席するという異例のものであった[14]。ただし即位式は行われていない[15]。またこの年には墾田永年私財法によって開墾が過熱したため、寺社を除いて一切の墾田私有を禁じている。
天平神護2年(766年)10月には海龍王寺で仏舎利が出現したとして、道鏡を法王とした。道鏡の下には法臣・法参議という僧侶の大臣が設置され、弓削御浄浄人が中納言となるなど道鏡の勢力が拡充された。一方で太政官の首席は左大臣・藤原永手であったが、吉備真備を右大臣に抜擢するなど異例ずくめであった。こうして称徳天皇=道鏡の二頭体制が確立された[16]。
称徳天皇は次々と大寺に行幸し、西大寺の拡張や西隆寺の造営、百万塔の製作を行うなど仏教重視の政策を推し進めた。一方で神社に対する保護政策も厚かったが、伊勢神宮や宇佐八幡宮内に神宮寺を建立するなど神仏習合がさらに進んだ。また神社の位階である神階制度も開始されている。一方で『続日本紀』では、政治と刑罰が厳しくささいなことで極刑が行われ、冤罪を産んだと評されている[15]。神護景雲3年(769年)5月には称徳天皇の異母妹・不破内親王と氷上志計志麻呂が天皇を呪詛したとして、名を改めた上で流刑にされている。同じく称徳天皇の異母妹・井上内親王を妻としていた中納言・白壁王(後の光仁天皇)は天皇の嫉視を警戒し、酒に溺れた振りをして難を逃れようとしていた。
神護景雲3年(769年)、大宰府の主神(かんづかさ)中臣習宜阿曾麻呂が「道鏡が皇位に就くべし」との宇佐八幡宮の託宣を報じたとされた。これを確かめるべく、和気清麻呂を勅使として宇佐八幡宮に送ったが、清麻呂はこの託宣は虚偽であると復命した。これに怒った称徳天皇と天皇の地位を狙っていた道鏡は清麻呂を改名した上で因幡員外介として左遷し、さらに大隅国へ配流した(宇佐八幡宮神託事件)[17]。10月から11月にかけては造営した由義宮に行幸し、同地を西京とする旨を宣した。神護景雲4年(770年)2月、称徳天皇は再び由義宮に行幸した。
死と後継[ソースを編集]
行幸翌月の3月なかばに発病し、病臥する事になる。このとき、看病の為に近づけたのは宮人(女官)の吉備由利(吉備真備の姉妹または娘)だけで、道鏡は崩御まで会うことはなかった。道鏡の権力はたちまち衰え、軍事指揮権は藤原永手や吉備真備ら太政官に奪われた[18]。 8月4日、称徳天皇は平城宮西宮寝殿で崩御した。宝算53。
称徳天皇は生涯独身であり、子をなすこともなかった。『続日本紀』宝亀元年(770年)八月癸巳条によると、崩御にあたって藤原永手や藤原宿奈麻呂・吉備真備ら群臣が集まって評議し、白壁王を後継として指名する「遺宣」が発せられたという。白壁王は光仁天皇として即位する。
一方、『日本紀略』『扶桑略記』に引用された「藤原百川伝」によると、崩御後間もなく群臣が集まって評議し、吉備真備が文室大市もしくは文室浄三を推し、永手や宿奈麻呂・藤原百川は白壁王を推した。真備が自案に固執すると、永手らは白壁王を指名する称徳天皇の遺詔を読み上げた。このため白壁王が即位して光仁天皇となるが、この遺詔は偽造されたものであったという[19]。
河内祥輔は『古代政治史における天皇制の論理』において、「藤原百川伝」の記述が『水鏡』に継承され、『大日本史』にも採用されたことから、吉備真備が出し抜かれた、藤原百川が暗躍したとされる経緯が一般的になったと指摘する。河内は百川が光仁擁立時は政治に参画する立場に無く、百川が暗躍したとする所説は桓武天皇の立太子の事情が誤って語られたものであると指摘。現在ではこの説が広く支持されている。
なお、道鏡は失脚して下野国薬師寺別当に左遷され、弓削浄人も土佐に流された。墾田私有も宝亀3年(772年)に再開されている。
性格[ソースを編集]
孝謙天皇には、自らに反抗したものに、卑しい名前を付けるという性格があった。その性格の元には、名前や言の葉(=言葉)は一つ一つ、思いがこもった霊であり、大切にしなければならない、という孝謙天皇の考えがあった[20]。一方で女性の地位向上に尽力し、多くの実績のある有力な女性に位階勲などを与えたことでも知られる。
橘奈良麻呂の乱では
- 道祖王 - 麻度比(まどひ=惑い者の意)
- 黄文王 - 久奈多夫禮(くなたぶれ=愚か者の意)
- 賀茂角足 - 乃呂志(のろし=鈍いの意か)
不破内親王の呪詛事件(これは誣告であった)では
- 不破内親王 - 厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ=台所の下女の意か)
- 氷上川継 - 志計志麻呂(しけし=穢れる、荒れるなどの意。林陸朗の説)
宇佐八幡宮神託事件では
- 和気清麻呂 - 別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)
- 和気広虫 - 別部狭虫(わけべのさむし)
など。
系譜[ソースを編集]
[表示]孝謙天皇・称徳天皇の系譜 |
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系図[ソースを編集]
古人大兄皇子 | 倭姫王 (天智天皇后) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(38)天智天皇 (中大兄皇子) | (41)持統天皇 (天武天皇后) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(43)元明天皇 (草壁皇子妃) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
間人皇女 (孝徳天皇后) | (39)弘文天皇 (大友皇子) | 葛野王 | 池辺王 | (淡海)三船 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
志貴皇子 (春日宮天皇) | (49)光仁天皇 | (50)桓武天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
早良親王 (崇道天皇) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(40)天武天皇 (大海人皇子) | 高市皇子 | 長屋王 | 桑田王 | 磯部王 | 石見王 | (高階)峰緒 〔高階氏へ〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
草壁皇子 (岡宮天皇) | (44)元正天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大津皇子 | (42)文武天皇 | (45)聖武天皇 | (46)孝謙天皇 (48)称徳天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忍壁皇子 | 吉備内親王 | 井上内親王 (光仁天皇后) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
長親王 | 智努王 (文室浄三) | 大原王 | (文室)綿麻呂 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
御原王 | 小倉王 | (清原)夏野 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
舎人親王 (崇道尽敬皇帝) | (47)淳仁天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
貞代王 | (清原)有雄 〔清原氏へ〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
新田部親王 | 塩焼王 | (氷上)川継 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
道祖王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
蘇我堅塩媛 | 29欽明天皇 | 石姫皇女 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
33推古天皇 | 30敏達天皇 | 広姫 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大俣女王 | 押坂彦人 大兄皇子 | 糠手姫皇女 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
吉備姫王 | 茅渟王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
35皇極天皇 37斉明天皇 | 34舒明天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
蘇我遠智娘 | 38天智天皇 | 蘇我姪娘 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
40天武天皇 | 41持統天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
49代以降 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
草壁皇子 | 43元明天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
44元正天皇 | 藤原宮子 | 42文武天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
光明皇后 | 45聖武天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
46孝謙天皇 48称徳天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
陵・霊廟[ソースを編集]
陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県奈良市山陵町にある高野陵(たかののみささぎ、位置)に治定されている[21][22][23]。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「佐紀高塚古墳」で、墳丘長127メートルの前方後円墳である。
ただし、本古墳は佐紀盾列古墳群を構成する前方後円墳であり、その比定は疑問視されている。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の一つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
作品[ソースを編集]
- 漫画
- 里中満智子 『女帝の手記-孝謙・称徳天皇物語』
- 清原なつの 『光の回廊』
- 井沢まさみ 『その時歴史が動いた コミック版 源平争乱・元寇編』内「悲しき女帝 許されざる恋-道鏡事件の真相-」
- 小説
- 映画
- テレビドラマ
参考文献[ソースを編集]
- 木本好信 「孝謙女帝像の再検討」『駒沢史学』 25、1978年
- 駒敏郎 「孝謙天皇」『別冊歴史読本』 13 - 16、1988年
- 瀧浪貞子 「孝謙女帝の皇統意識」『日本古代宮廷社会の研究』 思文閣出版、1991年
- 高橋崇 「孝謙・称徳天皇」『古代女帝のすべて』 新人物往来社、1991年
- 岡田芳朗 「女帝孝謙と藤原仲麻呂」『別冊歴史読本』 16 - 18、1991年
- 成清弘和 「女帝小考-孝謙・称徳女帝をめぐって-」『日本古代の王位継承と親族』 岩田書院、1993年
- 森田悌 「孝謙・称徳天皇」『別冊歴史読本』 38 - 17、1993年
- 木本好信 「孝謙上皇と淳仁天皇・藤原仲麻呂」『藤原仲麻呂政権の基礎的考察』 高科書店、1993年
- 渡辺晃宏『平城京と木簡の世紀 日本の歴史04』(講談社学術文庫、ISBN 978-4062919043
- 樋口知志・佐藤弥生 「奈良時代後期における皇権の推移」
- 木本好信『藤原仲麻呂』、ミネルヴァ書房、2011年
脚注[ソースを編集]
- ^ 渡辺、287-290p
- ^ 樋口・佐藤、146p
- ^ 中野渡俊治「『続日本紀』天平宝字二年八月庚子朔条「上䑓」考」(初出:『歴史』第110輯(2008年)/所収:中野渡『古代太上天皇の研究』(思文閣出版、2017年) ISBN 978-4-7842-1887-5)
- ^ 中野渡俊治「孝謙太上天皇と「皇帝」尊号」(初出:『日本歴史』649号(2002年)/所収:中野渡『古代太上天皇の研究』(思文閣出版、2017年) ISBN 978-4-7842-1887-5)
- ^ 渡辺、298-299p
- ^ 樋口・佐藤、147p
- ^ 鈴木琢郎「奈良時代の大臣任官と宣命」(初出:『日本歴史』675号(2004年)/所収:鈴木『日本古代の大臣制』(塙書房、2018年) ISBN 978-4-8273-1298-0 2018年、217-220p
- ^ 渡辺、313-314p
- ^ 渡辺、314p
- ^ 樋口・佐藤、148p
- ^ 渡辺、316-317p
- ^ 渡辺、323-324p
- ^ 岡野友彦 『院政とは何だったか』 PHP新書 kindle版 1709/2316 (2013年)
- ^ 渡辺、326p
- ^ a b 渡辺、324p
- ^ 渡辺、327p
- ^ http://www.sankei.com/world/news/161028/wor1610280005-n2.html
- ^ 渡辺、336p
- ^ 渡辺、337p
- ^ 雍正帝が帝位相続を争う有力な皇弟たちを改名させた例に近い。
- ^ 天皇陵(宮内庁)。
- ^ 宮内省諸陵寮編『陵墓要覧』(1934年、国立国会図書館デジタルコレクション)9コマ。
- ^ 『陵墓地形図集成 縮小版』 宮内庁書陵部陵墓課編、学生社、2014年、p. 409。
聖武天皇
聖武天皇 | |
---|---|
![]() 『聖武天皇像』(鎌倉時代、作者不詳) | |
元号 | 神亀 天平 天平感宝 |
時代 | 奈良時代 |
先代 | 元正天皇 |
次代 | 孝謙天皇 |
誕生 | 701年 |
崩御 | 756年6月4日 |
陵所 | 佐保山南陵 |
漢風諡号 | 勝宝感神聖武皇帝 (聖武天皇) |
和風諡号 | 天璽国押開豊桜彦天皇 |
諱 | 首(おびと) |
別称 | 沙弥勝満 |
父親 | 文武天皇 |
母親 | 藤原宮子 |
皇后 | 藤原光明子 |
夫人 | 県犬養広刀自 |
子女 | 孝謙天皇 基王 安積親王 井上内親王 不破内親王 |
皇居 | 平城宮 |
聖武天皇(しょうむてんのう、701年(大宝元年) - 756年6月4日(天平勝宝8年5月2日))は、日本の第45代天皇(在位:724年3月3日(神亀元年2月4日) - 749年8月19日(天平勝宝元年7月2日))。
名は首(おびと)。 尊号(諡号)を天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)、勝宝感神聖武皇帝(しょうほうかんじんしょうむこうてい)、沙弥勝満(しゃみしょうまん)とも言う。文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。
2012年(平成24年)9月、宮内庁は1873年(明治5年)の改暦の際に命日の換算を間違えていたため、2012年春から正しい日に直したことを『書陵部紀要』に発表した。聖武天皇の崩御日の旧暦はユリウス暦では6月4日、グレゴリオ暦では6月8日月日天計算違いで1日命日が異なっていたという。[1]
略歴[編集]
文武天皇の第一皇子として生まれたが、慶雲4年6月15日(707年7月18日)に7歳で父と死別、母の宮子も心的障害に陥ったため、その後は長く会うことはなかった。物心がついて以後の天皇が病気の平癒した母との対面を果たしたのは齢37のときであった。このため、同年7月17日(707年8月18日、文武天皇の母である元明天皇(天智天皇皇女)が中継ぎの天皇として即位した。和銅7年6月25日(714年8月9日)には首皇子の元服が行われて同日正式に立太子されるも、病弱であったこと、皇親勢力と外戚である藤原氏との対立もあり、即位は先延ばしにされ、翌霊亀元年9月2日(715年10月3日)に文武天皇の姉である元正天皇「中継ぎの中継ぎ」として皇位を継ぐことになった[2]。24歳のときに元正天皇より皇位を譲られて即位することになる。
聖武天皇の治世の初期は、皇親勢力を代表する長屋王が政権を担当していた。この当時、藤原氏は自家出身の光明子(父:藤原不比等、母:県犬養三千代)の立后を願っていた。しかし、皇后は夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即位する可能性があるため皇族しか立后されないのが当時の慣習であったことから、長屋王は光明子の立后に反対していた。ところが神亀6年(729年)に長屋王の変が起き、長屋王は自害、反対勢力がなくなったため、光明子は非皇族として初めて立后された[3]。長屋王の変は、長屋王を取り除き光明子を皇后にするために、不比等の息子で光明子の異母兄である藤原四兄弟が仕組んだものといわれている。なお、最終的に聖武天皇の後宮には他に4人の夫人が入ったが、光明皇后を含めた5人全員が藤原不比等・県犬養三千代のいずれか、または両人の血縁の者である。
天平9年(737年)に疫病が流行し、藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとんどが病死するという惨事に見舞われ、急遽、長屋王の実弟である鈴鹿王を知太政官事に任じて辛うじて政府の体裁を整える。さらに、天平12年(740年)には藤原広嗣の乱が起こっている。乱の最中に、突然関東(伊勢国、美濃国)への行幸を始め、平城京に戻らないまま恭仁京へ遷都を行う。その後、約10年間の間に目まぐるしく行われた遷都(平城京から恭仁京、難波京、紫香楽京を経て平城京に戻る)の経過は、『続日本紀』で多くが触れられている。詳しい動機付けは定かではないが、遷都を頻繁に行った期間中には、前述の藤原広嗣の乱を始め、先々で火災や大地震[4]など社会不安をもたらす要因に遭遇している。
天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13年(741年)には国分寺建立の詔を、天平15年(743年)には東大寺盧舎那仏像の造立の詔を出している。これに加えてたびたび遷都を行って災いから脱却しようとしたものの、官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰した[5]。また、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、国政は橘諸兄(光明皇后の異父兄にあたる)が執り仕切った。天平15年(743年)には、耕されない荒れ地が多いため、新たに墾田永年私財法を制定した。しかし、これによって律令制の根幹の一部が崩れることとなった。天平16年閏1月13日(744年3月7日)には安積親王が脚気のため急死した。これは藤原仲麻呂による毒殺と見る説がある。
天平勝宝元年7月2日(749年8月19日)、娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位した(一説には自らを「三宝の奴」と称した天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷が慌てて手続を執ったともいわれる[6])。譲位して太上天皇となった初の男性天皇となる。
天平勝宝4年4月9日(752年5月30日)、東大寺大仏の開眼法要を行う。天平勝宝6年(754年)には唐僧・鑑真が来日し、皇后や天皇とともに会ったが、同時期に長く病気を患っていた母の宮子と死別する。天平勝宝8歳(756年)に天武天皇の2世王・道祖王を皇太子にする遺言を残して崩御した。宝算56。戒名は、勝満。
聖武の七七忌に際し、光明皇后は東大寺盧舎那仏(大仏)に聖武遺愛の品を追善供養のため奉献した。その一部は正倉院に伝存している。なお、明治40年(1907年)から明治41年(1908年)の東大寺大仏殿改修の際に、須弥壇周辺から出土した鎮壇具のうち金銀装大刀2口が、奉献後まもない天平宝字3年(759年)12月に正倉院から持ち出され、奉献品の目録である東大寺献物帳(国家珍宝帳)に「除物」という付箋を付けられていた「陽寶劔(ようのほうけん)」と「陰寶劔(いんのほうけん)」であることが平成22年(2010年)にエックス線調査で判明した[7]。
この2口の大刀は聖武天皇の遺愛品であり、正倉院に一旦納めた後、光明皇后に返還されたと考えられる。
系譜[編集]
[表示]聖武天皇の系譜 |
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系図[編集]
古人大兄皇子 | 倭姫王 (天智天皇后) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(38)天智天皇 (中大兄皇子) | (41)持統天皇 (天武天皇后) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(43)元明天皇 (草壁皇子妃) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
間人皇女 (孝徳天皇后) | (39)弘文天皇 (大友皇子) | 葛野王 | 池辺王 | (淡海)三船 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
志貴皇子 (春日宮天皇) | (49)光仁天皇 | (50)桓武天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
早良親王 (崇道天皇) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(40)天武天皇 (大海人皇子) | 高市皇子 | 長屋王 | 桑田王 | 磯部王 | 石見王 | (高階)峰緒 〔高階氏へ〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
草壁皇子 (岡宮天皇) | (44)元正天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大津皇子 | (42)文武天皇 | (45)聖武天皇 | (46)孝謙天皇 (48)称徳天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忍壁皇子 | 吉備内親王 | 井上内親王 (光仁天皇后) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
長親王 | 智努王 (文室浄三) | 大原王 | (文室)綿麻呂 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
御原王 | 小倉王 | (清原)夏野 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
舎人親王 (崇道尽敬皇帝) | (47)淳仁天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
貞代王 | (清原)有雄 〔清原氏へ〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
新田部親王 | 塩焼王 | (氷上)川継 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
道祖王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
后妃・皇子女[編集]
- 皇后:光明皇后(701年 - 760年) - 藤原不比等女(母は県犬養三千代)、母・宮子の異母妹
- 夫人:県犬養広刀自(? - 762年) - 県犬養唐女、県犬養三千代のはとこの孫
- 夫人:南殿(? - 748年) - 藤原武智麻呂女、藤原不比等の孫
- 夫人:橘古那可智(? - 759年) - 橘佐為女、県犬養三千代の孫
- 夫人:北殿(? - 760年) - 藤原房前女(母は牟漏女王)、藤原不比等の孫、県犬養三千代の孫
在位中の元号[編集]
- 神亀 724年2月4日(3月3日) - 729年8月5日(9月6日)
- 天平 729年8月5日(9月6日) - 749年4月14日(5月8日)
- 天平感宝 749年4月14日(5月8日) - 7月2日(8月19日)
在位年と西暦との対照表[編集]
陵・霊廟[編集]
陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県奈良市法蓮町にある佐保山南陵(さほやまのみなみのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は山形。遺跡名は「法蓮北畑古墳」。
なお、光明皇后は佐保山東陵に埋葬されている。また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
備考[編集]
仏教政策について[編集]
飯沼賢司は聖武天皇およびそれ以降の仏教政策について以下のように解説している。
聖武天皇の治世の前期、行基を中心とする集団が弾圧されたが、当時の朝廷は仏教は天皇やその周辺の支配層のためのものだという考え方があり、その政策の基調を作ったが天皇の外祖父で光明皇后の実父でもある藤原不比等であった。ところが、聖武天皇は次第に行基や知識の活動に関心を抱き始め、河内の知識寺訪問や行基との対面を得て、紫香楽宮での大仏造立を決意した。しかし、行基集団や知識の力を借りて民衆を巻き込んだ大仏造立を進める天皇と、国分寺や国分尼寺建立政策などを通じて父・不比等の路線を継承した皇后の間に、次第に仏教観を巡る対立が生まれ、最終的に国分寺の総本山である奈良の東大寺で大仏が造立された(飯沼は、光明皇后の念頭にあったのは唐の則天武后が国家主導で造立した奉先寺の大仏であったとする)。天皇と皇后の仏教観の対立は、行基亡き後に僧綱の中心にあった行信の配流事件や朝廷の政治的対立にも影響を与え、やがて皇后の甥にあたる藤原仲麻呂が政権を取ったことで皇后側の優位に終わったかと思われた。だが、天皇と皇后の娘であった孝謙天皇(後に称徳天皇)は両親の死後に弓削道鏡の補佐を受けて父・聖武の路線を継ぐことを明確にし、窮地に立った仲麻呂は藤原仲麻呂の乱で滅亡する。そして、優れた仏教者・菩薩であれば、身分を越えて国王になれるという国家観に辿り着いた称徳天皇は、道鏡を皇位につけるべく宇佐八幡宮神託事件を引き起こしてしまう。その後、桓武天皇が平安遷都による仏教勢力の影響力排除や最澄・空海の庇護、一連の対立に関わった八幡神の神仏習合の推進(八幡大菩薩の誕生)を行うことで、聖武天皇の鎮魂と共に事態の収拾にあたったとする[8]。
奈良国立博物館[編集]
奈良国立博物館新館の入り口には聖武天皇筆「雑集」から集字した題字が掲げられている[9]。
脚注[編集]
- ^ 聖武天皇の命日、1日間違えた 宮内庁、日本経済新聞、2012年9月26日
- ^ ただし、『続日本紀』に皇太子の元服した年月日(和銅7年6月庚辰条)と聖武天皇が和銅7年6月に立太子をした記事(即位前紀)があっても立太子の正式な年月日を記した本文記事はなく(立太子と元服が同時というのは両記事の合成に過ぎない)、和銅7年に首皇子(聖武天皇)が立太子された事実は確認できず、実際には元正天皇の即位後、首皇子が朝政に参画したり、東宮職員の整備が進んだりした養老4年(720年)前後に立太子されたとする説もある(本間満「首皇子の元服立太子について」(初出:『昭和薬科大学紀要』35号(2001年)・所収:本間『日本古代皇太子制度の研究』(雄山閣、2014年) ISBN 978-4-639-02294-7)。
- ^ これより前の皇后は原則的に神または天皇の血筋であるが、厳密には若干の例外もある。
- ^ 松浦茂樹「水利科学」No.358 p55 森林科学研究所 2017年
- ^ 天平16年2月には恭仁京から難波京への遷都の詔が出されているが、当時天皇は紫香楽宮に滞在していた。この詔の発令は元正上皇によるものとも言われており、たび重なる遷都は宮廷の一時的分裂を招いたとする見方もある。なお、翌年1月に聖武天皇は紫香楽宮を都としている。(参照:筧敏生『古代王権と律令国家』(校倉書房、2002年)P251-267)
- ^ 公式の退位日は7月2日であるが、その以前の1月14日に行基を師として出家した(『扶桑略記』)とされ、また閏5月20日に作成された東大寺への勅施入願文には「太上天皇沙弥勝満」の署名(『続日本紀』)があり、このときには聖武天皇自身は既に退位・出家していた可能性がある。
- ^ 【東大寺・(財)元興寺文化財研究所 合同発表】国宝東大寺金堂鎮壇具 金銀荘大刀二振の宝剣字象嵌銘および、銀荘大刀一振の七星文象嵌の発見について
- ^ 飯沼賢司「信仰の広がり」館野和己・出田和久 編『日本古代の交通・流通・情報 2 旅と交易』(吉川弘文館、2016年) ISBN 978-4-642-01729-9 P158-172
- ^ 施設案内 - 東新館・西新館『奈良奈良国立博物館公式サイト』
参考文献[編集]
- 『聖武天皇御伝』 東大寺編・発行、1956年。
伝記(近年)[編集]
- 森本公誠 『聖武天皇 責めはわれ一人にあり』 講談社、2010年
- 『中西進著作集25 天智伝/聖武天皇』 四季社、2010年→『聖武天皇』 中公文庫、2011年5月
- 吉川真司 『聖武天皇と仏都平城京 (天皇の歴史02)』 講談社、2011年
関連項目[編集]
天平勝宝4年4月9日(752年5月30日)、東大寺大仏の開眼法要を行う。天平勝宝6年(754年)には唐僧・鑑真が来日し、皇后や天皇とともに会ったが、同時期に長く病気を患っていた母の宮子と死別する。天平勝宝8歳(756年)に天武天皇の2世王・道祖王を皇太子にする遺言を残して崩御した。宝算56。戒名は、勝満。