카테고리 없음

야마고시 아미타 그림山越阿弥陀図(やまごしあみだず)

VIS VITALIS 2018. 12. 15. 08:26

国宝 山越阿弥陀図(原寸大復元屏風装)

国宝 山越阿弥陀図(原寸大復元屏風装)

一幅 顔彩方式絹本着色
縦 138㎝ 横 118㎝
鎌倉時代 13世紀前半
龍谷大学 人間・科学・宗教 オープン・リサーチ・センター 蔵
(この山越阿弥陀図の原絵図は、永観堂禅林寺所蔵である。)


なだらかな稜線のつづく山々の向こうから、転法輪印を結んだ阿弥陀如来が、正面を向いて上半身をあらわしている。阿弥陀如来の背後には、大海が広がっている。観音菩薩と勢至菩薩が踏みわり蓮華に立ち、白い雲に乗って山を越え、往生人に向かって今まさに来迎せんとする様子が描かれている。観音は往生人の乗る蓮台を両手で差しだし、勢至は合掌し、両菩薩ともに身体を前にかがめ死を迎える人の心に優しく寄り添う。両菩薩の前方には、四天王が左右に立ち、臨終を迎える人が極楽往生できるように力強く見守っている。あわせて二人の持幡童子が幡を掲げて、往生人を阿弥陀如来の方向に導こうとするのである。この四天王と二童子は、三善為康著『拾遺往生伝』(1132年)に記載されている。阿弥陀如来は、背にほのかな白銀色の円光背を負い、画面左上のすみには、月輪中に、大日如来の種子「阿」字が悉曇文字で記されている。密教の『大日経疏』などによれば、阿字は、本不生、すなわち、「あらゆるものが空であり生滅がないこと」「万有の根源」を象徴する。この山越阿弥陀図全体の清らかで透きとおった色調と月輪中の阿字とが指し示すように、月の光が山の向こうから届く情景を、阿弥陀如来と観音・勢至の来迎にたとえたのであろう。阿弥陀如来・観音・勢至の三尊の身体は、ともに金泥で飾られ、法衣の彩色には、金・銀泥や切金が用いられ、繊細で柔らかな印象を与える。山裾には、桜や紅葉が描かれ、日本人の愛する自然がこの絵に込められていることがわかる。
この図は、高野山で行われていた真言浄土教の念仏の本尊とされる。真言宗の僧でありながら、法然の没後、法然に帰依し、承久三年(1221)、禅林寺に入った静遍僧都(1165~1223)が、高野山で尊重されている阿字月輪観を通して感得した来迎図と伝えられている。
この阿弥陀如来の両手には、金戒光明寺本の山越阿弥陀図と同様に、五色の糸をつけていた孔が残っている。また、阿弥陀の白毫が深く数枚の裏打紙に達するまでえぐりとられている。『宣胤卿記』永正16年(1519)5月末の記事によると、天王寺西門西脇壁に描かれていたという恵心僧都源信筆の山越阿弥陀図を写した三条西実隆所蔵来迎図の阿弥陀の白毫に、聖徳太子が勝鬘経講讃のとき、毎日行水に使う水を浄めるため、法隆寺の井戸に沈めたという珠をはめていた、という記述がある。その意味で、この図の白毫が深くえぐりとられている理由は、ここに水晶などの珠を差し込んだか、もしくは、この部分に孔をあけ、絵の裏から灯火をちらつかせて、斜め向き来迎図に必ず描かれている白毫から出る光線を、実際の光で放射し、臨終を迎えた往生者を随喜させたのではないか、と推察されている。さらにこの図は、阿弥陀如来の左右に、縦の折り目の跡が二本残っていることから、もとは屏風仕立てであったと考えられる。
この国宝山越阿弥陀図は、現存する山越阿弥陀図の一つとして、最古の優れた作品である。

(鍋島直樹)




山越阿弥陀図(やまごしあみだず)

山越阿弥陀図

臨終しようとする信仰者の前に、阿弥陀仏と眷属たちが極楽から迎えに来た場面を描いている。本作品はいままさに山を越えようとする図様に表わされるところから山越阿弥陀図と呼ばれている。山越阿弥陀図の類品はすべて鎌倉時代に入ってからの制作になり、禅林寺本と金戒光明寺本がよく知られている。山の端にかかる落日かまたは満月を阿弥陀に見立てるところからこの図様が生まれたようだ。これらはどちらも阿弥陀を正面向きに描くのに対し、本作品は一般的な来迎図の形式をとりいれて斜め向きに変化しているのが特色である。やわらかい山岳表現ともども構図がよく整い、鎌倉仏画の代表的作品にあげられる。

絹本著色
120.6×80.3cm
鎌倉時代(13世紀)
国宝
京都国立博物館
A甲282