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앙서仰誓(고세이ごうせい, 1721-1794). 묘호인전

VIS VITALIS 2018. 4. 11. 10:55

仰誓:江戸中期の宗教学者。後に鈴木大拙にも取り上げられる『妙好人伝』を著し始める(市木浄泉寺・浄土真宗本願寺派)

仰誓(1721-1794)・

仰誓:江戸中期の宗教学者。後に鈴木大拙にも取り上げられる『妙好人伝』を著し始める(市木浄泉寺・浄土真宗本願寺派)
履善:同上。仰誓の子。江戸町奉行所で三業惑乱の論戦に打ち克ち、教義を正道に正した。父と同じく、多くの石州妙好人を善導した精神的指導者だった。

仰誓 ごうせい

1721-1794 江戸時代中期-後期の僧。
享保(きょうほう)6年生まれ。浄土真宗本願寺派。僧樸(そうぼく)にまなぶ。邪説にまどう門徒を教化するため石見(いわみ)(島根県)におもむき,明和元年(1764)浄泉寺の住職となる。のち西本願寺で教育を担当した。「妙好人(みょうこうにん)伝」の編者として知られる。寛政6年4月2日死去。74歳。京都出身。字(あざな)は欽願。号は合明閣。


妙好人 みょうこうにん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

妙好人
みょうこうにん

人間のなかで最もすぐれた最上至高の人を意味し,特に真宗の篤信者をさす。中国の念仏僧,善導の『観経疏』に「もし能く相続して念仏する者,此の人,甚だ稀有なりとなす。……即ち是れ人中の好人なり,人中の妙好人なり,人中の上上人なり,人中の稀有人なり,人中の最勝人なり」とあるのに由来している。このような特別な熟語として用いられるようになったのは,石見国浄泉寺の仰誓が文政1 (1818) 年に編集した『妙好人伝以後とされる。これ以来,美濃国専精寺の僧純が天保 14 (43) 年から安政5 (58) 年の間に2編から5編までを編纂し,さらに松前の象王は嘉永3 (50) 年に仰誓の初編に続く続編を編んだ。これが今日流布している江戸時代の6編の『妙好人伝』で,これ以来,今日にいたるまで,諸種の妙好人伝が刊行されている。妙好人伝編纂には,その内容と時代から,それぞれの意図が探られている。たとえば,上記の江戸時代の6編は,体制への順応,新興宗教や異安心への対応などが指摘されている。上の6編に収載されている人たちは農民や小商人が圧倒的で,このように学問もなく,社会的地位も低かった人が,どうして高度な信仰を獲得したか,また妙好人という言葉が,なぜ特に真宗の篤信者に対する特別な熟語になったかなどが関心事となっている。

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百科事典マイペディアの解説

妙好人【みょうこうにん】

江戸末期,浄土真宗の篤信者で,特に行状の美しい者を呼んだ通称。1830年代に仰誓(ぎょうぜい)らは《妙好人伝》2巻を編み,この名を初めて用いた。以後,6回編集され大正時代に及んだ。

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世界大百科事典 第2版の解説

みょうこうにん【妙好人】

真宗を中心とした浄土教の篤信者のこと。《観無量寿経》が念仏者を〈人中の分陀利華(ふんだりけ)〉とたとえたのを,唐の善導が《観経疏散善義》で注して,〈人中の好人,人中の妙好人,人中の上上人,人中の希有人,人中の最勝人〉と称したのに始まる。本来は念仏篤信者に対する褒賞語で,法然,親鸞,一遍などもその意に用いたが,江戸時代末に《妙好人伝》が板行されて以後,とくに真宗の在家念仏者の篤信家を指す語となった。そのほとんどは農民を中心とする庶民的な念仏者で,その生活がすべて念仏中心に展開するのを特色とする。