Kleśa (sanskrit क्लेश, also klesha ) is a term from Indian philosophy and yoga, meaning a "poison". The third śloka of the second chapter of Patañjali's Yogasūtra explicitly identifies Five Poisons (Sanskrit: pañcakleśā): अविद्यास्मितारागद्वेषाभिनिवेशाः पञ्च क्लेशाः॥३॥
Kleshas (Sanskrit: kleśa; Pali: kilesa; Standard Tibetan: nyon mongs,)
anuśaya
(Skt.; Pāli, anusaya).‘Outflows’, or latent negative tendencies that lie dormant in the mind. Seven are recognized in early Buddhist ...
anuśaya
QUICK REFERENCE
(Skt., anuśaya).
In Buddhism a latent tendency or disposition towards vice. According to Buddhist psychology these dispositions are carried over to the next life and exist even in the newly born infant.
[...]
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/23/1/23_1_150/_pdf
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/23/1/23_1_150/_article/-char/ja/
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kleśaとanuśaya(西村 実則 ニシムラ ミノリ nishimura minori)
kleśaとanuśaya(西村)
kleśaとanuśaya
西村実則
有部アビダルマの最も整つた綱要書なる倶舎論において、煩悩を
説く品名はanusaya-nirdesa〔-kosasthana〕(随眠品)である。煩悩
という時、一般的にklrsaを用いるが、では一体、klrsaとanusayaの関係を倶舎論では、いかに扱つたのであろうか。
klesaはくklis(悩ます、苦しむ)より、anusayaはanu-si
(-に横わる、眠る)より作られ、新旧訳ともに煩悩、惑とされ、
特にanusayaは随眠と訳される。このkiesaときanusayaは、とも
に解脱に対し最後まで心を迷わせる働きのあるものをいう。なお仏
教以外ではanusayaは残余、後悔、解約として、またklesaもかく
の如き意でなく、苦しめること、苦行の意とされている。
さてこの二つは、すでに仏教最初期のスッタニパータ(14, 369,
571偶)、ダンマパダ(338偶)、テーラガーター(839偶)におの
おの別個に説かれ、しかもこの二語の用例は意外に少なく、使い分
けの区別も明確でない。そこには心を煩わすのはlilesaであり、
あるいはanusayaであると、個々の煩悩として単に用いられるのみ
である。それがアビダルマ論書において、全く別個に説かれていた
数多くの煩悩の一つであつたklesaとanusayaが、漏・暴流・輻・
取・結・蓋等を代表して煩悩とみなされたものの総称概念として用
いられるようになつた。このうち、klesaを統山名としたのは大煩
悩地(klesa-mahabhumika)法、小煩悩地(paritta-kl)
法で、界身足論に初めて説かれ、き鼠。冨を統一名としたのは品類
足論以後まとめられた六随眠(sad-anusaya)説、及びこれを細別
した九十八随眠説である。ところが、大・小煩悩地法は五位説、ま
た六随眠説は煩悩論というように、別なる立場から整理されたと考
えられるため、両者は異なる煩悩の分類をしている。この両者に共
通する煩悩は無明のみであるが、大煩悩地法、六随眠説ともに根本
煩悩を集めたと考えられるので、その分類名に異つた意義があるの
であろうか。そこでこのklesaとanusayaの関係を位置づけたの
が世親の倶舎論である。この倶舎論において、まず有部はklesaと
anusayaを同一とみなす。その論証は次の如くである。
ノニ
これはアーガマが「因二別意趣こ(abhayika)であるが、アビ
ルニ
ダルマでは「依二実相こ(laksanika)であるからklesaとanusay
は等しいとするのである。このlaksanikaについて倶舎論の註釈
者称友は、ただ相(laksanika)の最勝なることより(pradhana)、
また相により明示されるとしている。さらに安慧と満増はいう。
実相としてとは、随眠の言葉は貧等の煩悩(non mons pa)にお
いて働くもので、それらは微細(phea ba)と二種の随〔逐・縛〕
と随増(ksanika)であつて、以上の〔随増した〕随眠の相
と因であるが故に。(sthiramti, peking, 1483.
このlaksanikaによる主張はアーガマと峻別するためであろう
が、有部は倶舎論で契経をも自説の典拠としているのである。しか
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し、ここに提示された「微細」「随逐」「随縛」「随増」は品類足論、
婆沙論、倶舎論、順正理論、入阿毘達磨論、さらにアビダルマディ
ーパに見られ、有部のanusayaの語義解釈そのものである。
まず微細(anu)とは、随眠の極小なる行相(suksma-pracara)
をさし、随逐(anusaya)は心と心所の倶生を起こす得(prati)と
結ぶことを、また随縛(anubabdha)は加行(proayoga)なく縛り
つくことをいう。さらに随増(anusaya anubabdha)は対象により起
る所縁(anubabdh)随増と、煩悩法と心心所法が働く相応(samprayoga随増のことをいうのである。
この有部の四つの解釈はすべてaunを用い、proayoga(極微)
における餌。aunとの文辞(nirukti)を含むとともに、心に随うとい
う点を特に強調し、煩悩が実際に現われ活動することを示すが、潜
在的可能力(sakti)としての説明はみられない。それは有部が随眠
は心不相応(viprayukta)でなく、心相応(samprayukta)である
とし、さらに衆賢が順正理論に、
ニハダクリトノヲゾソヤズシテニテニエルコトヲトバク
経但説下有二随眠一言加寧知下非二爾時一於二余時幽方有加有謂有
ナリレノナリ
体。是現有義。(大正二九・五九八・中)
と、過去、未来にある法以外は、現に実体がある法でなければなら
ないとした理論によるのであろう。このような有部説に対し、世親
は経部(sautramtika)の説を次の如く支持した。
まず冠縁。という概念があり、それの心の中に眠つている(prasupta)場合がhetuとしてのanusayaであり、心相応でも心不相
応でもないとし、一方心の外に現われ(prabuddha)、悩ます場合が
phalaとしての纒(prayavasthana)であるとしたのである。この
うち特にanusayaについて称友はいう。
すなわち有部はanusayaとklesaとprayavasthanaの三つねシ
ノニムであり、積子部は心不相応行法の得(prapti)を、また経部
は可能力(sakti)たる種子(bija)をanusayaとしたのである。
そしてこの経部のいうanusayaが、心の中に潜む悪への強い傾向
の意であり、世親が支持する説である。この説が後の唯識派におい
て、無意識的活動主体なるアーラヤ識成立への基礎となつたと考え
られるのである。
しからばかくの如く世親が解釈しつつも、倶舎論全体において
klesaとnusayaの用法上の区別は徹底しているかというと、かく
は言い難い。それは第三章世間品において、
と、第五章随眠品名を碧誌醸。でなくklesa-nirdesaとし、また
随眠晶において、
と偶にき誌。巻を用い、長行釈では江。鍬と言い換えていること、
さらに表面に現われた煩悩の分類が大・小の煩悩地法で、潜在的な
煩悩のそれが六随眠説と、世親がそれぞれの統一名を区別したと考
え難いためである。以上により、klesaとanusayaは倶舎論におい
て漠然と煩悩一般、または煩悩の分類名として用いられ、さらに両
者について部派間で伺異論があったことが判明するであろう。