가지 , 카지 かじ [鍛冶] 대장장이. 高橋長信作 - Takahashi Naganobu -
명사, ス타동사
1817年~1879年5月20日没の刀工。出雲郡三分市村出身。13歳の時松江に移り、その後江戸で修行し名工として認められる。松江藩のお抱え刀工となり、のち藩士として20俵3人扶持を給せられるまでになる。
その他の資料として『雲藩刀工高橋聾司長信の研究』『斬る 幕末の名工高橋長信』がある。
鍛冶町(かじまち、かじちょう)、鍛冶屋町(かじやまち、かじやちょう)は、日本の地名。 城下町において、職業別集住制が行われ、鍛冶屋が多く住んだ地区であることが多い( 鍛治町 (曖昧さ回避)も参照)。
刀工(とうこう)は、刀剣、特に日本刀を作る職人のことである。鍛冶の技術を用いる事から、鍛人(かぬち)、鍛師(かなち)、刀鍛冶(かたなかじ)、刀匠(とうしょう)、刀師(かたなし)などとも呼ばれる。統括団体である一般社団法人全日本刀匠会では会名である刀匠と刀鍛冶を使用している[1]。本ページでは刀工に統一する。
刀剣を製造(鍛造)することを鍛刀(たんとう)といい、鍛刀される場所・地域を鍛刀地(たんとうち)という。
また、鍛刀地および鍛刀技術や特徴を同じくするものを刀派(とうは)、流派(りゅうは)、刀工群(とうこうぐん)、刀工集団(とうこうしゅうだん)と呼ぶ[2][3][4][注釈 1]。
目次
鍛刀[編集]
日本刀を作るには数段階あり、それぞれの段階の職人がいる。
- 鉱山師 - 鉱物を掘り出す
- 鉄穴師(かんなじ) - 砂鉄を採集し砂と分ける
- タタラ師 - たたら吹きの一種たたら製鉄し砂鉄を溶かす
- 山子 - 炉の火のための炭を焼く
- 刀鍛冶 - 鉄を製品に加工する(ここでは、鉄の塊を鍛造し日本刀にする)
- 彫師 - 刀に梵字や装飾図を彫る[注釈 2]
- 鞘師 - 刀にあわせて、鞘を作る
- 研師 - できあがった刀を研ぐ
広義には上記全てが刀工とも言えるが、本項では主に刀鍛冶(職人以外を含む)について述べる。
歴史と主な刀派[編集]
日本刀は、慶長以前を古刀期、以降を新刀期に分けられる。また、流派(刀派)で記載するのが一般的である[5]。ここでは、主な刀派と国宝、重要文化財に指定されている代表的な刀匠を中心に記載する。
古刀期[編集]
上古[編集]
古事記や日本書紀などに記録されている神代(かみよ)から奈良時代(延暦24(805年)まで。
- 祖神:天目一箇神
- 刀匠の祖神は『日本書紀』に高皇産霊神が大物主神に詔した段にみられる天目一箇神[注釈 3]。
- 『古事記』天岩戸の段で、思金神に呼ばれた鍛人天津麻羅(あまつまら)[7]と同一神との説もあるが、天叢雲剣を天照皇大神のために造ったと伝承されている。この剣は人皇第12代景行天皇の皇子日本武尊の草薙剣で、熱田神宮の御神体として伝来されている。
- 韓鍛(からかぬち)の卓素(たくそ)
- 『古事記』応神天皇記によると、百済の照古王(近肖古王か)が和邇吉師に鍛冶(韓鍛(からかぬち))の卓素を献上した[注釈 6]。
- 近肖古王は七支刀を神功皇后時代に献上している。
平安時代[編集]
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大同元年(806年)から寿永2年(1183年)まで。 坂上田村麻呂の蝦夷征伐、藤原秀郷、平高望、源経基ら武士の台頭、僧兵、承平天慶の乱、治承・寿永の乱(源平合戦)などの時代背景から、彎刀形で芯鉄(しんがね)を入れた鍛刀による強靭でしなやか、かつ信仰の対象ともなる日本刀の誕生はこの頃であるといわれている。「小烏丸」(御物)は平貞盛が平将門の乱を天慶3年(940年)に平定した褒賞の刀と伝承されており、鍛造の特徴から、平安時代中期頃の大和鍛冶の作と見られている。製鉄技術は当時貴重であり、租税として製鉄品が朝廷や寺社が取り立てており、自然と刀工の活躍地域は近畿地方、もしくは製鉄の産地から始まった。最も古いと見られているのは大和国に興った「大和伝」で、続いて「山城伝」、「備前伝」が興ったと見られている。この3伝法が今日に至るまでの刀剣製作の基本的な技法となる。特に大和伝は、奈良時代より奈良を中心に各地の寺社領へと広まったため、その影響下にある刀工は多い。(相州伝、美濃伝は上述3伝法を発展させて誕生した)
- 各地の伝法、流派、著名刀工
- 大和伝 - 大和国(古千手院派・行信、重弘)。西国等(豊前国の神息、豊後国の僧定秀、行平、薩摩国の(波平派)行安、安行)、陸奥(みちのく)等(陸奥国の寶寿、舞草、出羽国の月山等)。
- 山城伝 - 山城国(三条派・宗近、五条派・国永、兼永)
- 備前伝 - 備前国(古備前派・友成、正恒、包平)
- その他 - 伯耆国の安綱、安家、真守、国宗。備中国(古青江派の正恒、貞次、恒次)。
鎌倉時代[編集]
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元暦元年(1184年)から元弘3年(1333年)まで。 鎌倉幕府が相州鎌倉の地で興り、京都中心の前政治体制から大きく転換。前時代から萌芽の見られた武家社会が本格的に始まった。依然として製鉄産地での刀剣製作が主流であったが、鎌倉の地にても刀剣製作が始まった。幕府が各地の著名工を集ったと伝わり、備前から福岡一文字の助真、備前三郎国宗。京都から粟田口藤六左近国綱、新藤五国光が赴いた。 鎌倉で刀剣研究が行われる一方、承久の乱を引き起こした後鳥羽上皇は自らも作刀し、天皇家に遣える武家に太刀を与えた。これは「御番鍛冶制度」と呼ばれ、月替わりで、京、備前、備中等の著名刀工を招いた。茎に十六葉の菊紋が彫ってあることから「菊御作」と呼ばれる。 承久の乱後、蒙古襲来(元寇)があり、大鎧対抗を前提とした重厚な刀剣の姿から反省を生かし、今までの刀剣の姿に改良が加えられつつ、南北朝時代を迎えることとなる。鎌倉で作刀が始まったとは言え鎌倉時代の主力産地は備前であり、鎌倉で新たに興った「相州伝」は次の時代にその特徴が全国へ広まることとなる。
- 主な流派
- 山城伝 - 山城国(粟田口派の則国、国友、久国、国吉、吉光、国安、国綱。綾小路派の定利、守利。来派の国行、国俊、国光、光包、了戒)。肥後国(延寿派の国村、国資、国時)
- 備前伝 - 福岡一文字派諸工(例:則宗、吉房、助真)。吉岡一文字派諸工。長船派の光忠、長光、景光。畠田派の守家、真守。宇甘派の雲生、雲次、雲重。
- 大和伝 - 大和国(千手院派の龍門延吉。当麻派の国行、有俊。手掻派の包永。尻縣派の則弘、保昌派の貞吉、貞宗)。備後国の古三原派、二王派。越中国の宇多派。その他は前時代の門跡を継ぐ(著名刀工に、筑前国の西蓮、実阿がいる)。
- 相州伝 - 相模国(新藤五国光、国廣、藤三郎行光、正宗)。越中国の則重
- その他 - 備中国(中青江派の貞次、為次、康次、吉次、次吉)
南北朝時代[編集]
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建武元年(1334年)から明徳4年(1393年)まで。 後醍醐天皇の建武の新政は足利尊氏の離叛で南北朝の争乱として60年続く。刀剣は勇壮で実用的な相州伝が全国へ普及した時代でもある。
- 主な流派
- 山城国(了戒と相州伝系:信国と信国派、相州伝系:長谷部国重と長谷部派。三条派:吉則)
- 大和国(手掻派:包次、尻縣派:則長、保昌派)
- 摂津国(来国長と中島来派)
- 相模国(相州伝:貞宗、廣光、秋広)
- 美濃国(志津派:兼氏、金重派:金重)
- 備前国(相伝:兼光、義光、長船派:長光、雲次と鵜飼派、盛景と大宮派)
- 備中国(貞次 (後代)と青江派)
- 備後国(三原正家と三原派)
- 周防国(清綱とニ王派)
- 筑前国(左衛門三郎安吉と左文字派、金剛兵衛盛高と金剛兵衛派)
- 豊後国(高田友行と高田派)
- 肥後国(延寿派:国時)
- 薩摩国(波平行安と波平派)
- 土佐国(吉光)
室町時代[編集]
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刀剣史では前期を応永元年(1394年)から文正2年(1467年)まで、後期を応仁の乱(応仁元年(1467年)から文禄4年(1595年)までを戦国時代としている。 南北朝の戦乱が終わり平和な時代が始まり、御番鍛冶様式の優美な作が増える。偑刀(はいとう)方法が変わり、刀と脇指(わきざし)の二本を指すようになった。また、備前伝が全国へ普及した時代である。
- 主な流派
- 山城国(京信国派:応永信国、三条派:三条吉則、平安城派:平安城長吉)
- 大和国(尻縣派:包吉、手掻派:包吉、金房派(かなぼうは):正重)
- 出羽国(月山派)
- 相模国(相州伝:正広、広正)
- 美濃国(直江志津派:兼友、善定兼吉と善定派)
- 加賀国(友重と藤島派)
- 越後国(安信と山村派)
- 越中国(国宗と宇田派)
- 豊後国(高田派:高田長盛、了戒能真と了戒派)
- 筑後国(家永と大石左派)
- 肥前国(盛広と平戸左派)
戦国時代[編集]
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応仁の乱(応仁元年(1467年)から文禄4年(1595年)まで。 京鍛冶は応仁の乱により地方へ移住。注文刀とは別に、応仁の乱と対明貿易により大量の刀剣が必要となり数打ち物という粗製濫造刀も出現した。後期には伝統古法の技術の衰微ともなった。
- 主な流派
- 山城国(三条派、平安城派、鞍馬派)
- 伊勢国(村正と千子派:正重、正真、正利)
- 美濃国(兼定派、孫六派)
- 駿河国(島田派)
- 相模国(相州伝:綱広)
- 武蔵国(下原鍛冶)
- 若狭国(小浜派)
- 加賀国(藤島派)
- 備前国(長船派:勝光、宗光))
- 備中国(水田派。新刀期に大与五国重派、河野派に分かれ、「女国重」の銘を持つ女性刀工も生んだ)[12][13][14]
- 備後国(三原派、法華系、長房派)
- 伯耆国(広賀派)
- 土佐国(吉光派)
- 阿波国(海部派)
- 豊前国(宇佐信国派)
- 豊後国(高田派、筑紫了戒派)
- 肥後国(同田貫派)
- 薩摩国(末波平)
新刀期[編集]
慶長元年(1596年)から現在まで)。さらに安永以降を新々刀、大正以降を現代刀と細分している。
江戸時代前期〜中期[編集]
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織田信長、豊臣秀吉、徳川家康等が刀剣を政策的に利用したことで刀工の地位が上がった。また運輸交通の発達による砂鉄の確保、南蛮鉄の利用などにより、鍛刀法が変化した。埋忠明寿は古三条宗近の末孫を名乗り、綺麗な地鉄による作刀を行ったため、『校正古今鍛冶銘早見出』で新刀の祖と呼ばれている[15]。 その後、寛文新刀の時代を経るが、その後、元禄時代(1688年〜1703年)では最も衰微した時代となるが、徳川吉宗が享保6年(1721年)、全国から名工を集め鍛刀させ、一平安代、主水正正清、信国重包に一つ葵紋を許可し、尚武を推進し、次の新々刀期へむかう。
- 主な流派
- 山城国(埋忠明寿と埋忠派、堀川国広と堀川派)、伊賀守金道と三品派)
- 摂津国(津田助広と津田派、和泉守国貞派:井上真改)
- 紀伊国(南紀重国と重国派)
- 武蔵国(長曽禰虎徹、野田繁慶と野田派)
- 陸前国(山城大掾国包と国包派)
- 筑前国(信国吉貞と筑前信国派)[注釈 7]
- 肥前国(初代忠吉と近江大掾忠広:陸奥守忠吉))(河内大掾藤原正廣)
- 薩摩国(氏房派:主水正正清、波平派:一平安代)
新々刀期[編集]
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安永(1772年)期から明治末期(1912年)頃までを言う。 新々刀の祖水心子正秀は南北朝を理想とし古伝模倣を推奨し、復古刀全盛となった。また、幕末の世情により刀剣の需要も増えたため、刀工も増加した、しかし、明治9年(1876年)の廃刀令で刀工が激減した。しかし、廃刀令には軍人の軍刀は認められており、また、明治天皇が刀剣に趣味があり、帝室技芸員に月山貞一(初代)および宮本包則が選ばれるなど鍛刀技術の保護育成もあった。
- 主な刀工
現代刀[編集]
昭和6年(1931年)の満州事変以降、軍刀需要が増加し、昭和8年(1933年)、栗原彦三郎(昭秀)の日本刀鍛錬伝習所、同年靖国神社に日本刀鍛錬会が設立され、刀工養成に力がそそがれた。
昭和20年の終戦で武装解除としてGHQは赤羽に数十万口の刀剣類を没収(赤羽刀としてあったが、平成7年(1995年)には法律により関連の美術館。博物館で展示されている)、刀剣の制作も禁止した。その後関係者の努力で、昭和29年(1954年)に、第一回新作刀展が開催されるなど、伝統的刀工を育成・増加させる試みがなされた。
現代では美術品として扱われるため、刀工は武器職人ではなく芸術家(工芸家)とみなされているが、真剣は武器にもなり得るため国家資格が必要となる(後述)。
- 重要無形文化財保持者
現状[編集]
刀工になるには全日本刀匠会の刀匠資格を有する刀工の元で5年以上研修し、実地試験として文化庁が主催する『美術刀剣刀匠技術保存研修会』を修了する必要がある(受験は4年目から可能)[1]。ただし現代では刀の需要が少ないため多くの刀工は経済的に苦しく弟子を採ることに消極的な者が多いため、幸運や紹介者に頼らないと入門先を探すのも難しいという[1]。
従来は志望者が自ら探していたが連絡先が見つからず全日本刀匠会への問い合わせが多くなったため、志望者向けの研修会を開催して対応するようになった[1]。志望者向けの研修会では刀工の体験や修業中の者から話を聞くなどし、希望者はさらに刀工の元で体験入門も出来る。なお年齢や金属加工の経験などは問われない[1]が、刀工の真鍋純平は高卒の18~20歳が適しており、25歳が上限ではないかとしている[26]。
刀匠資格は国家資格であり資格がない者は刀を作れないが、刀工は個人事業主であるため研修中は無給で、国家試験は8日間の実技、独立開業には1千万円ほど必要になるなどハードルが高く、研修を続けられない者が多い。このため1989年に300人いた刀工は2017年には188人に減少している[27]。また購入者の開拓も必要であるとされる[27]。
日本製鋼所室蘭製作所では鍛刀技術の継承を目的として敷地内に『瑞泉鍛刀所』を設置し、刀工を社員として抱えている[28][29]。
テレビ番組の企画で日本刀の条件に合致しない刀剣(リアル斬鉄剣)が検証用に製造されたことがある。
刀匠資格は日本の制度であるため、海外では刀剣職人(ブレイドスミス)が日本刀の製法を取り入れた模造刀を作ることもある。コールドスチールでは炭素鋼を使った日本刀風の刀剣を販売している。
逸話・伝説[編集]
鉄の塊から鋭利な刃物を作る技術者である彼らは、しばしば神秘的な存在としてみられた。たとえば、正宗には「刀の切れ味を決める焼き入れの際の水の温度を知ろうとして水に手を触れた弟子の手を斬って落とした」、小鍛冶宗近の「小狐丸」には稲荷大明神の化身が作刀を手伝ったなどの逸話がある。他にも伝説上の刀工「天国」は日本刀剣の祖とされ、平家重代の宝刀「小烏丸」や江戸亀戸天神の宝剣も天国の作といわれる。特に後者は「一度鞘から抜き放てば必ず豪雨を呼ぶ」という逸話も残されている。
また、日本の古い物語上で土蜘蛛あるいは鬼といった妖怪として退治されていった者たちは、この製鉄に関わる者たちであったという説もある(沢史生説)。信仰のなかに火男がおり、天目一箇神や一つ目小僧、産婆との関係も論じられている[30]。
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 刀工群・刀工集団は同一鍛刀地の刀工を指し、刀派・流派はそれに加えて同一鍛刀地の刀工の技術・特徴も含む呼び方である。
- ^ 簡単な梵字などは刀鍛冶が行う場合も多いが、特に彫刻が装飾化した江戸時代以降の刀で、明らかに上手なものは専門の彫師の手によるものであることが多い。これの代表的な例が、越前康継製作の刀剣であり、康継の彫りある刀剣のほとんどは記内一門によるものである。しかし、刀鍛冶に比べて身分が低かったのか、刀の銘に誰が彫ったかなどの銘が記されていることは少ない。江戸時代以降の刀工で自身の刀に彫刻を施す者は少なく、専門の彫師より上手くないことが多い。ただ、例外があって江戸時代の刀工でも埋忠明寿、堀川国広、長曽祢虎徹、一竿子忠綱、栗原信秀、月山貞一などは極めて上手い彫刻を自身の刀に施す。また、彫師は所有者の好みなどで元々彫刻の無い刀に後彫りすることもある。
- ^ 『日本書紀』巻二神代下第九段一書第二に「高皇産靈尊、大物主神に勅す(中略)天目一箇神、爲作金者」とある[6]。
- ^ 『日本書紀』巻四、冬十一月の条「倭鍛部天津真浦造真鏃」とある[8]。
- ^ 『日本書紀』巻六、三十九年冬十月条に「五十瓊敷命居於茅渟菟砥川上宮作劔一千口因名其劒謂川上部」とある[9]。
- ^ 『古事記』品陀和氣命(応神天皇)に「和邇吉師者、文首等祖又貢上手人韓鍛、名卓素、亦呉服西素二人也」とある[10]。
- ^ 吉貞の長男、初代平四朗吉政を筆頭に信国重包、信国吉包が有名、筑前信国派の刀は、金筋交え美しく、出来栄え極めて良い。黒田武士好みの刀が多く無骨かつ重量感あふれる作品が多く、見るものを圧倒する出来栄えである。平四朗吉政は同名で四代有り、現存のほとんどの平四朗吉政は、二代以降の物であり、まれに見る初代平四朗吉政の作品は、すばらしい出来である。筑州住源信国平四朗吉政作、源信国平四朗吉政などの銘がある。)
- ^ 左安秀:左安国:左安近:左安広あり刀、短刀などの作が多く実見できる。
脚注[編集]
- ^ a b c d e 刀鍛冶になりたい方へ - 全日本刀匠会
- ^ 松枝達文『岡山県大百科事典』山陽新聞社、1980年。NCID BN01086619。(昭和55年)
- ^ 得能一男『日本刀事典』光芸出版、2003年。ISBN 4769401167。NCID BA63136408。(平成15年)
- ^ 歴史群像編集部『「図解」日本刀事典 : 刀・拵から刀工・名刀まで刀剣用語徹底網羅!!』学習研究社、2006年。ISBN 9784054032767。NCID BA80201390。
- ^ 常石英明 『日本刀の鑑定と鑑賞』 金園社〈実用百科選書〉、1967年。 NCID BN13329048。など
- ^ 国立国会図書館近代デジタルライブラリーより。「神代下第九段一書第二」『日本書紀巻ニ』1〈国史大系〉。
- ^ 国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」より。「天岩戸」『古事記』7〈国史大系〉。
- ^ 国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」より。「冬十一月」『日本書紀 巻四』1〈国史大系〉。
- ^ 国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」より。「三十九年冬十月」『日本書紀 巻六』1〈国史大系〉。
- ^ 国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」より。「応神天皇」『古事記』7〈国史大系〉。
- ^ 国立国会図書館 古典籍資料(貴重書等)-重要文化財より。『銘尽』、1423年、写、15頁。doi:10.11501/1288371。2018年4月23日閲覧。
- ^ 備中国水田住国重倉敷刀剣美術館
- ^ 国重お源(読み)くにしげ おげんコトバンク
- ^ 女国重『郷土先哲後月の人人』 後月郡教育会、昭和19
- ^ 尾關善兵衛永富、富田亀邱『校正古今鍛冶銘早見出』博省堂〈日本刀古書復刻叢書〉、1944年、復刻。NCID BA42643736。2018年4月23日閲覧。
- ^ 清水不濁 [編]「高橋貞次短刀銘」、美術倶楽部出版部、1958年。
- ^ 本間順治 [監修]、佐藤貫一 [監修]「刀身の彫刻 高橋貞次」『日本刀のできるまで』7、徳間書店〈日本刀全集〉、1966年、43-58頁。
- ^ 宮入行平 [出演]; 岩波映画製作所 [製作]; 記録映画保存センター (1976年) (35mmフィルム; 短編; id=iw-02166; 35分). 日本刀 ―宮入行平のわざ―. 文化庁.
- ^ 刀匠:宮入行平 [出演]; 研ぎ師:小野光敬 [出演]; 記録映画保存センター[企画・協力]; 岩波映画製作所 [製作]; 伊藤惣一 [解説] (2011年) (DVD 1枚 (35分); カラー; ステレオ; スタンダード; 音声: 日,英). 日本刀 ―宮入行平のわざ The Japanese sword : the art of Miyairi Yukihira. クエスト.. ISBN 978-4-86308-351-6
- ^ 月山貞一『日本刀に生きる』刀剣春秋新聞社、1973年。
- ^ 岡田譲ほか [編]『月山貞一 日本刀.米光光正 肥後象嵌・透』30、講談社〈人間国宝シリーズ〉、1981年。
- ^ 白山市立松任博物館 [編集]『国宝の輝き : 日本刀の美と名匠の技 : 平成二十年度白山市立松任博物館開館二十周年記念展・故隅谷正峯刀匠没後十年回顧展』白山市立松任博物館、2008年。
- ^ 隅谷正峯「製鉄原料と古代刀の地金 古代刀に必要な地金」『季刊考古学』第8号、雄山閣、1984年8月、 57-58頁。
- ^ 小笠原信夫 [東京国立博物館名誉会員] (2013年6月). “重要無形文化財「日本刀」保持者 天田昭次氏”. 文化庁月報 (文化庁) (537) 2018年4月23日閲覧。.
- ^ 菊谷匡祐「人間国宝「匠の世界」刀匠大隅俊平--鋼と火の祭司」『プレジデント』第38巻第8号、プレジデント社 、2000年5月15日、 122-127頁。
- ^ 刀鍛冶になりたいと思っている人は、まずこの頁を読んでみて下さい - 刀工の真鍋純平による刀工の現状紹介
- ^ a b “刀剣ブーム”の裏で深刻な刀匠の後継者不足 「二次元」とのコラボで活路 - ORICON NEWS
- ^ 日本刀の鍛刀技術を継承する日本製鋼所 - 三井広報委員会
- ^ 瑞泉鍛刀所 室蘭ものづくり
- ^ 谷川健一『鍛冶屋の母』思索社、1979年。NCID BN03791156。
参考文献[編集]
- 『銘尽』、1423年、写。doi:10.11501/1288371。 - 国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能
- 尾關善兵衛永富、富田亀邱『校正古今鍛冶銘早見出』博省堂〈日本刀古書復刻叢書〉、1944年、復刻。NCID BA42643736。
- 常石英明 『日本刀の鑑定と鑑賞』 金園社〈実用百科選書〉、1967年。 NCID BN13329048。
- 松枝達文『岡山県大百科事典』山陽新聞社、1980年。NCID BN01086619。
- 得能一男『日本刀事典』光芸出版、2003年。ISBN 4769401167。NCID BA63136408。
- 歴史群像編集部『「図解」日本刀事典 : 刀・拵から刀工・名刀まで刀剣用語徹底網羅!!』学習研究社、2006年。ISBN 9784054032767。NCID BA80201390。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 全日本刀匠会
- 刀鍛冶になりたいと思っている人は、まずこの頁を読んでみて下さい - 刀工の真鍋純平による刀工の現状紹介
高橋長信 - Takahashi Naganobu -
高橋長信は出雲の刀工で新々刀上作として有名です。長信は文化十四年生まれで、雲州高橋冬広の門人となり、のちに養子となる。天保年間に江戸へ出府し、加藤長運斎綱俊門人り、その後松江藩工となると云われています。本作は、生刃を約2.5cm残る健全な刀で、身幅尋常、反り浅く、寸やや短く、重ねの頗る厚く、平肉がたっぷりとしている姿恰好をしています。地鉄は小板目に小杢目まじり、地景が入る精美な鍛えで、鎬は柾となります。刃紋は丁子で、匂口は締まり心に小沸つき、足がよく入り、細かな金筋・砂流しがかかり、明るく冴えた出来となります。帽子は乱れ込んで丸く返ります。中心は生ぶ、鑢目は化粧に逆筋違、目釘孔二個、重ねが厚い造りです。白鞘には鞘書があります。本刀は常の豪壮な造りではなく、小振りではありますが、重ねが頗る厚く、頑丈な造りであり、地鉄や、刃の出来を見ても、長信の実力が十分発揮された出来で、見事と云えます。
表 銘 | 相州住秋廣 |
南北朝期の相州鍛冶の秋広は廣光の子または弟、貞宗の弟子などと伝えられ皆焼刃の見事な短刀が多く刀は少ないです。貞宗は正宗の子といい作風を良く継承しています。この短刀も大変美しい皆焼刃です。
相州住秋広
刀〈銘相州住秋広/明徳三〉 かたな〈めいそうしゅうじゅうあきひろ/めいとくさん〉
- 相州住秋広
- 南北朝/1392
- 鎬造、三ッ棟。鍛小杢目交り小板目、刃文は湾小乱れ交理、帽子は大丸。茎磨上げ。鑢不明、尻切、目釘孔二内一埋。彫物は表に樋内に梵字一、三鈷剣浮彫、裏は棒樋内に宝珠蓮華梵字一…
- 長63.6 元幅2.8 先幅1.9 反2.2 (㎝)
- 1口
- 重文指定年月日:19270425
国宝指定年月日:
登録年月日: - 国宝・重要文化財(美術品)
南北朝時代の作品。
相州貞宗 鎌倉時代末期~南北朝前期
相州貞宗は正宗の門人で後に養子になったと伝え、作刀時期は鎌倉時代最末期から南北朝前期に及び、作風は師風を最もよく受け継いでいるが、比しては穏やかとなり、一方姿形は時代性を反映し大振りとなるところに師との相違が見られる。
相州貞宗作風の特徴、形状は太刀に生ぶ茎のものがなく、鎌倉様式のものは鎬造り、庵棟、身幅尋常で中鋒、中反り高くつく。南北朝様式のものは鎬造り、稀に切刃造りあり、三ツ棟、庵棟もあり、身幅広く、重ね薄く、大鋒。鍛えは、板目、小板目、小板目つむもの、やや杢目の交じるもの等あり、地沸よくつき、地景よく入る。湯走りかかるものもある。概して浅いのたれに互の目、小乱れが交じり、足入り、湯よくつき、金筋入り、砂流しかかる。稀にのたれ調の大乱れに互の目交じり、変化に富むものがある。直刃の作を一口見る。帽子は、乱れ込み、のたれ込み、直ぐごころ、先丸、大丸ごころ、尖りごころ、焼きつめ、火炎など、掃きかけかかる。彫物は、二筋樋を得意とし、棒樋、重ね彫は棒樋、または二筋樋に梵字、素剣、爪付剣、あるいは倶利伽羅等を重ね、彫口が深いのが相州彫の見どころで、剣の頭は張って一段と深く彫る。茎は、生ぶのものがなく、本阿弥家での正式の大磨上げは正宗と同様、先を剣形とするが、正宗ほど先が細らず、茎先で目立って棟に寄ることがない。短刀・脇指は、形状が、平造り、脇指には切刃造りもあり、三ツ棟、短刀は無反り、小振りのものは稀有で総じて寸延びる。脇指は身幅が広く、重ねはやや薄く、寸延びて浅く反る。彫物は、梵字に爪付剣、梵字に三鈷剣、爪付剣等が最も多く、二筋樋、腰樋、刀樋、梵字、素剣、三鈷剣、草倶利伽羅等の浮彫、重ね彫等がある。茎は、舟形風、先剣形、鑢目浅い勝手下がりとなる。
主な作品:刀 無銘 貞宗(亀甲貞宗) 国宝 東京国立博物館所蔵、短刀 朱銘 貞宗 本阿(花押)(伏見貞宗) 国宝 黒川古文化研究所所蔵、短刀 無銘 貞宗 (寺沢貞宗) 国宝 文化庁所蔵、短刀 無銘 貞宗 (太鼓鐘貞宗) 重要文化財 伊達家伝来、短刀 無銘 貞宗 (物吉貞宗) 徳川美術館所蔵、短刀 無銘 貞宗(名物池田貞宗)東京国立博物館所蔵、などがある。
(参考文献:名品刀絵図聚成 田野邉道宏著書・古刀新刀刀工作風事典 深江泰正著書・重要刀剣図譜より転載・引用・抜粋)
短刀 銘相州住秋広/永和二
相州広光 南北朝期時代
相州秋広は相州広光と並んで南北朝期の相州鍛冶を代表する刀工であり、この期に盛行する皆焼の刃文は、両者の最も得意としたところである。この期に盛行する皆焼の刃文は、両者の最も得意としたところである。相州広光作風の特徴、形状は、在銘の太刀はなく、極め物も少ない。短刀も稀有である。平造りの脇指が主体である。平造り、三ツ棟、身幅広く、寸延びて浅く反る。広光、秋広には重ねの薄くないものがある。秋広に比べて大振りなものが多い。鍛えは、板目、僅かに杢交じるものがあって、やや肌立つ。地沸つき、地景入り、地斑交じるものもある。刃文は、互の目主調に丁子を交えた皆焼刃、相州物は上半焼が深くなる。広光は物打あたりに大きく団子のような丁子を焼く。一口直刃の作がある。帽子は、乱れ込み先尖り、火焔ごころのものもあり、深く返る。彫物は、すべてに彫があり、刀樋が多く、連樋、梵字、素剣、爪付剣、護摩箸がある。茎は、鑢目浅い勝手下がり、中央に「相模国住人広光」と七字銘、裏には必ず年紀を切る。稀に二字銘があって、それは先張りごころ、目釘孔子下中央に大振りに二字銘。
主な作品:刀 無銘 広光(名物 大倶利伽羅広光)重要美術品、脇指 銘 相模国住人広光 康安二年十月日(号 火車切)重要美術品 上杉家御手選三十五腰 佐野美術館蔵など
(参考文献:名品刀絵図聚成 田野邉道宏著書・古刀新刀刀工作風事典 深江泰正著書・重要刀剣図譜より転載・引用・抜粋)

相州秋広 南北朝期時代
相州秋広は相州広光と並んで南北朝期の相州鍛冶を代表する刀工であり、この期に盛行する皆焼の刃文は、両者の最も得意としたところである。秋広の現存する年紀作の上限は延文二年で、下限は明徳三年に至っている。銘字は「相州住秋広」と五字銘にきり、年紀は延文のものは相州広光と同様に年月日を省略しない普通のきり方であるが、貞治以降は年月日を略す手があらわれ、永和以降になると例外なく年月日を略すようになる。
相州秋広作風の特徴、形状は、平造り、三ツ棟、身幅広く、寸延びて浅く反る。稀に鎬造りもある。鍛えは、板目、杢交じり、やや肌立ち、地沸つき、地景よく入り、地斑交じるものがある。刃文は、互の目主調に丁子交じりの皆焼刃でややこずみ、尖り刃交じるものがある。直刃はないが、浅くのたれごころに小互の目交じり、皆焼とならないものがある。沸つき、金筋・砂流しかかる。帽子は、乱れ込み先尖る。稀に小丸、大丸ごころもあり、深く返る。彫物は、刀樋、添樋、素剣、蓮台、梵字、護摩箸がある。茎は、寸法の割に短く、先栗尻、鑢目浅い勝手下がり、目釘孔下中央に「相州住秋広」と五字銘に切り、年紀はたとえば永和二という具合に多くの場合「年月日」を略す。
主な作品:短刀 銘 相州住秋広 永和二 重要文化財 京都国立博物館蔵、刀 銘 相州住秋広 明徳三 重要文化財 鹿児島神宮所蔵など
(参考文献:名品刀絵図聚成 田野邉道宏著書・古刀新刀刀工作風事典 深江泰正著書・重要刀剣図譜より転載・引用・抜粋)