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은덕찬 恩徳讃 おんどくさん

VIS VITALIS 2019. 9. 25. 14:13


如来 大悲の恩徳は 


身を粉にしても報ずべし 


 師主知識の恩徳も 


骨をくだきても謝すべし



にょらいだいひのおんどくは

 みをこなにしてもほうずべし

 ししゅちしきのおんどくも

 ほねをくだきてもしゃすべし



師主(読み)ししゅ

〘名〙
① 仏語。学問修行で、よりどころとなる師。師匠。
※令義解(718)僧尼「若三綱及師主。隠而不申」
※平家(13C前)二「堂衆等師主の命をそむいて合戦を企」 〔根本説一切有部毘奈耶‐二三〕
② 手本(てほん)。〔古列女伝‐母儀伝・魯季敬姜〕





 

如来 大悲の恩徳は 

[ にょらいだいひのおんどくは ] 

身を粉にしても報ずべし 

[ みをこなにしてもほうずべし ]

 師主知識の恩徳も 

ししゅちしきのおんどくも ] 

骨をくだきても謝すべし

[ ほねをくだきてもしゃすべし



にょらいだいひのおんどくは 

 如来 大悲の恩徳は  

 みをこなにしてもほうずべし

 身を粉にしても報ずべし 

ししゅちしきのおんどくも 

師主知識の恩徳も 

ほねをくだきてもしゃすべし

骨をくだきても謝すべし 




恩徳讃とは、親鸞聖人が『正像末和讃(しょうぞうまつわさん)』の中に書かれているお言葉で、節をつけて歌われ、昔から浄土真宗の盛んな地域では親しまれています。

https://1kara.tulip-k.jp/wakaru/2016111225.html#i-3


恩徳讃



如来大悲の恩徳(にょらいだいひのおんどく)は、
 身を粉にしても報ずべし( みをこなにしても ほうずべし)

 師主知識の恩徳(ししゅちしきのおんどく)も、
 骨を砕きても謝すべし( ほねをくだきても しゃすべし)


뇨라이 다이히노 온도쿠와

   미오코니 시테모 호즈베시

    시슈찌시키노 온도쿠모

    호네오 쿠다키떼모 샤스베시


여래께서 베풀어주신 큰 자비의 은덕은

몸을 가루로 부수더라도 갚아야 하리

스승 선지식께서 베풀어주신 은덕도

뼈를 찧더라도 감사해야 하리

(동국대 김호성 교수님 음역 및 번역)

恩 徳 讃 (おんどくさん) 



如来大悲(にょらいだいひ)の恩徳(おんどく)は 

 身(み)を粉(こ)にしても報(ほう)ずべし

 師主(ししゅ)知識(ちしき)の恩徳おん(どく)も 

 骨(ほね)を砕(くだ)きても謝(しゃ)すべし

                             (正像末和讃 親鸞聖人)


如来 大悲の恩徳は 

[ にょらいだいひのおんどくは ] 

身を粉にしても報ずべし 

[ みをこなにしてもほうずべし ]

 師主知識の恩徳も 

ししゅきのおんどくも ] 

骨をくだきても謝すべし

[ ほねをくだきてもしゃすべし



師主 [사주]

흔히 '중'을 높이어 일컫는 말

① 스승. ② 승려를 높여 일컫는 말.


불타(佛陀, Buddha : 깨달은 사람이란 뜻), 여래(如來), 세존(世尊), 사주(師主) 등의 존호(尊號)가 있다.





・知恩(ちおん)  受けている恩を知る
・感恩(かんおん) 恩に感謝する
・報恩(ほうおん) 恩に報いようとする



・忘恩(ぼうおん) 受けている恩を流し、忘れる
・背恩(はいおん) 恩に背く
・逆恩(ぎゃくおん)恩を怨で返す






恩徳讃へのざわめき

(鶴見 晃 教学研究所所員)

如来大悲の恩徳は
 身を粉にしても報ずべし
 師主知識の恩徳も
 ほねをくだきても謝すべし(聖典五〇五頁)

 報恩講の最後に勤まる和讃・恩徳讃は、真宗門徒の心の歌ともいうべき和讃である。私は宗祖が作られた数々の和讃の中でも、特に力のこもった一首ではないかと思っている。しかしその言葉に頷けない、違和感があるという声を時折聞くのも実際である。正直に言って、私もこの和讃に心がざわめく一人である。それは特に「べし」の語の響きについてである。
 「べし」は、推量や適当、可能、義務、勧誘、命令の他、自分の行動に対しての意志や決意の意を表すなど、文脈によって様々な意味を持つ。浄土真宗を学び始めた頃の私にとって、この「べし」は、自らの意志や決意を伴わない中で命令や義務の声に聞こえた。そこにあったのは、たとえ仏恩・師恩への報謝であれ、強制への拒否感であった。しかし、単なる拒否感ではなく、恩徳に対する報謝が人生を尽くしてもなお足らざるものであることについては、そうであるに違いない、そうでありたいという、憧れに近い感情も共在していた。そのような、「べし」の一言に対する拒絶と憧憬の感情のはざまに、今なお私にとって恩徳讃に対する心のざわめきがある。
 この和讃は、身と骨が入れ替わるが、先輩聖覚法印の、「つらつら教授の恩徳を思えば、実に弥陀の悲願に等しきものか。骨を粉にしてこれを報ずべし、身を摧きてこれを謝すべし」(法然上人御仏事表白文)という言葉を元としているといわれる。粉骨砕身の語は、仏典にも用例があり、力を尽くして努める意の慣用句ではある。しかし、法然上人の恩徳を弥陀の悲願に等しいものとしていただき、報謝の志を表白した先輩の言葉は、呼びかけの声となって宗祖の心に響き、「私も」という心を呼び起こしたに違いない。そのように報謝の志が聖覚法印から宗祖へと共鳴したところに恩徳讃の言葉が成ったのではなかろうか。
 恩徳讃を記す宗祖に思い出されたのは、法然上人の主著『選択本願念仏集』を書写したことであろう。書写を通して師から弟子へと教えの流通が依託され、宗祖は、名を改め、新しく「善信」を名のることによってその依託に応えた。それは、それ以後の人生を私物化することなく、師から書を託された人生として、どこまでも「教えを善く信じて歩まん」という意志、決意として受け止めていく、師への全身をあげての応答であったのであろう。その依託と応答は、聖覚法印の言葉に呼応して恩徳讃を記した宗祖の原点であり、三十三歳以後の人生の時間の意味ではなかったのではないか。
 人としてのいのちが尽くされるまでの時間。その時間をどう生きるのか。人生を自分のものだと執着し、時間を捧げることを惜しみ、拒んでいる。人としてのいのちを私有化していることの現れが、私にとって恩徳讃への心のざわめきである。そのざわめきは恩徳讃があの言葉であるからこそ起こる。そこに私にとっての恩徳讃がある。

(『ともしび』2016年12月号掲載)




 

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親鸞聖人はたくさんのご和讃(和語で三宝を讃嘆する七五調の詩歌)を書かれています。その中に私たちが日常的に大学の行事でも歌っている「恩徳讃」があります。

如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし

(『正像末和讃』註釈版聖典610頁)

私たちはなぜ仏になれるのか、あるいは浄土に生まれることができるのかということは、如来大悲のはたらき無くしてはそういうことはあり得ない。そういうことを気づかしめられることがないので、そのことに気づきさえすればそのことの恩徳というのは、この私にとっては身を粉にしても報ずべきことである。またそういう教えに出会うことについても師主知識ですので親鸞聖人にとっては七高僧であってみたり、一番の近いところでは法然聖人がそうですが、私たちにすれば皆さん方もそれぞれどこかの人との出会いというものが必ずあります。この人に出会えばこそ浄土真宗の教えの道に入ることができた、あるいは仏教の教えの出会いに近づくことができた。そういうことの恩徳というものもあろうかと思うのですが、そういう意味ではそういう人との出会いあるいは恩師と称してみても師主と称してみてもそういう方々の恩徳も、やはり私が何らかの求道の中で自分の力で見いだしたものではなくて恩徳として受け止めて、そのことをほねを砕きても謝すべし、とこのように歌われているのが「恩徳讃」というものだと思います。私たちも個人的なこととして振り返ってみればそういった恩師とも言うべき方々との出会いによって浄土真宗のみ教えに近づき、またその教えを旨として生き抜いていきたいという思いを育てていただいた恩というものがあります。

https://www.ryukoku.ac.jp/shukyo/event/houwa/201306.html




地獄は一定住処(いちじょうすみか)ぞかしと。

http://www.gem.hi-ho.ne.jp/sogenji/hitokuchihouwa/ondokusan.htm






如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし

というご和讃は、御開山さんが『尊号真像銘文』法印聖覚和尚の銘文で、

大師聖人(源空)の御をしへの恩おもくふかきことをおもひしるべしとなり。 「粉骨可報之 摧身可謝之」といふは、大師聖人の御をしへの恩徳のおもきことをしりて、骨を粉にしても報ずべしとなり、身を摧きても恩徳を報ふべしとなり。よくよくこの和尚(聖覚)のこのをしへを御覧じしるべしと。

の法然聖人の恩徳を和讃されたものである。御開山は法然聖人を阿弥陀仏の化現であるとみられていた。子供の頃には、身を粉にするのも骨を砕くのも嫌だよと、リアルに思ふていて反発したこともあった(笑
ともあれ、『尊号真像銘文』の漢文部分にはこの「粉骨可報之 摧身可謝之」を示す語がないので略抄されたのであろうと思っていた。
で、貧乏であまり本は買えないのだが『浄土真宗聖典全書』を買って「聖覚法印表白文」の全文をみて納得したものであった(笑

愚昧な門徒がお聖教を読もうとすると非難中傷する坊さんが多いのだが、蓮如さのお示しには、

一 蓮如上人仰せられ候ふ。本尊は掛けやぶれ、聖教はよみやぶれと、対句に仰せられ候ふ。

とあるので、暇つぶしにお聖教を披くことではあった。ありがたいこっちゃな。

→「聖覚法印表白文

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

http://blog.wikidharma.org/blogs/blog/2018/02/04/%E5%A6%82%E6%9D%A5%E5%A4%A7%E6%82%B2%E3%81%AE%E6%81%A9%E5%BE%B3%E3%81%AF-2/