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발무撥無. 발무인과.撥無因果. 인과발무因果撥無

VIS VITALIS 2019. 8. 26. 13:06

拨无因果
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佛教术语,拨者,绝也,除也,除遣为无其事,谓之拨无。拨无因果者,否定因果之道理也,是五见中之邪见也。地藏十轮经七曰:“拨无因果,断灭善根。”楞严经九曰:“拨无因果,一向入空。”广百论释五曰:“若无善恶者,苦乐亦无,是则拨无一切因果。”俱舍论十七曰:“缘何邪见,能断善根?谓定拨无因果邪见。”慧琳音义七十二曰:“左传云:拨犹绝也。考声云:拨却也除也。” [1]
参考资料
1. 参考资料网页

はつ‐む【×撥無】

[名](スル)払いのけて信じないこと。否定して排除すること。
「憎愛の二極を―して」〈有島・惜みなく愛は奪ふ〉
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典の解説

はつ‐ぶ【撥無】
〘名〙 =はつむ(撥無)
※色葉字類抄(1177‐81)「撥撫 ハツブ」
はつ‐む【撥無】
〘名〙 払いのけて信用しないこと。否定し、しりぞけること。はちむ。はつぶ。
※正法眼蔵(1231‐53)深信因果「いたづらに撥無(はつむ)因果のあやまりあり」


因果撥無

いんがはつむ

 因果の道理を否定すること。(改邪鈔 P.937)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

『改邪鈔』17では、通仏教(聖道門)の因果相順の理(因果の道理)のみを信じて阿弥陀仏の本願力の仏因仏果を受け容れられない者を批判していた。

おほよそ他力の一門においては、釈尊一代の説教にいまだその例なき通途性相[1]をはなれたる言語道断の不思議なりといふは、凡夫報土に生るるといふをもつてなり。もし因果相順の理〔因果の道理〕にまかせば、釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途むなしくなりぬべし。そのゆゑは、たすけましまさんとする十方衆生たる凡夫、因果相順の理〔因果の道理〕に封ぜられて、別願所成の報土に凡夫生るべからざるゆゑなり。
いま報土得生のにあたへまします仏智の一念は、すなはち仏因なり。かの仏因にひかれてうるところの定聚の位滅度に至るといふは、すなはち仏果なり。この仏因仏果においては、他力より成ずれば、さらに凡夫のちからにてみだすべきにあらず、また撥無すべきにあらず。しかれば、なにによりてか「因果撥無の機あるべし」といふことをいはんや。もつともこの名言、他力の宗旨をもつぱらにせらるる当流にそむけり。かつてうかがひしらざるゆゑか。はやく停止すべし。(改邪鈔 P.939)
通途
別途
  • 〔…〕内は林遊が付加した。

いわゆる通仏教 (聖道門) の因果相順の理〔因果の道理〕に呪縛されることは、浄土真宗本願力に拠る救済論を理解していないことであった。「自業自得の因果論」と阿弥陀仏の「大悲の必然としての因果論」の違いは御開山の救済論の根幹にかかわることがらであった。

因果
罪福
信罪福心


  1. 元の位置に戻る 通途の性相。仏教一般に通用する教義のこと。聖道諸宗の教学の意。この聖道門に対して浄土門の教相を別途といふ。