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小林多喜二

VIS VITALIS 2016. 6. 9. 15:30

プロレタリア文学の代表的作家・小林多喜二

小林多喜二

誕生:1903年12月1日
出身:秋田県北秋田郡下川沿村(現・大館市)
死没:1933年2月20日(満29歳没)

小林多喜二の性格

多喜二は明るい性格で、とても話し好きな人物であった。 母思いで地下に潜入後も原稿料は母親に送り、死の間際にも「母親にだけは知らせてくれ」と懇願した。

小林多喜二の代表作『蟹工船』が2008年にブーム

蟹工船ブーム

戦前のプロレタリア文学を代表する小林多喜二の小説『蟹工船』が、2008(平成20)年1年間だけの売り上げが、各社の文庫版・マンガ版などの総計で80万部に迫るベストセラーになった現象。

映画化された蟹工船

戦前の資本主義時代の労働者を描く小説が現代に復活した理由は、新自由主義経済で格差が拡大し、貧困層の労働実態・生活実態は戦前と変わらないではないかと、当事者たちが感じているためと指摘されている。

いわゆる「蟹工船」ブームは、作家の高橋源一郎さんと雨宮処凛さんが対談で(「毎日新聞」1月9日朝刊)、現代日本と「蟹工船」を関連づけて発言したことを契機に、書店で売り上げを伸ばし、増刷を繰り返すことで発生したとされるが、ここ数ヶ月のあいだに拍車がかかっているように見える。いまや、平成時代のある社会状況を映し出したキーワードとなりそうな勢いである。日本社会に広く浸透しつつあるように見える「蟹工船」ブームは、現代日本のどのような状況を映し出しているのであろうか。

出典:教育×WASEDA onLINE

小林多喜二の生涯

小林多喜二は大学から文学に関わる

生活は豊かではなかったが、伯父の工場に住み込みで働く代わりに学資を受け小樽商業学校から小樽高等商業学校(現小樽商科大学)へ進学。

この前後から、自家の窮迫した境遇や、当時の深刻な不況から来る社会不安などの影響で労働運動への参加を始めている。

卒業後、北海道拓殖銀行(拓銀)小樽支店に勤務し、そのころ5歳年下の恋人田口タキに出会う。

小林多喜二は特高警察にマークされる

1928年の総選挙のときに、北海道1区から立候補した山本懸蔵の選挙運動を手伝い、羊蹄山麓の村に応援演説に行く。この経験がのちの作品『東倶知安行』に生かされている。

同年に起きた三・一五事件を題材に『一九二八年三月十五日』を『戦旗』に発表。作品中の特別高等警察による拷問の描写が、特高警察の憤激を買い、後に拷問死させられる引き金となった。

翌1929年に『蟹工船』を『戦旗』に発表し、一躍プロレタリア文学の旗手として注目を集めると同時に、警察(特に当時の特別高等警察)からも要注意人物としてマークされ始める。

特別高等警察、略して特高。手塚治虫の『アドルフに告ぐ』にも登場するこの組織は、体制に反対する労働組合員や反戦平和活動家など、政府に逆らう思想犯を徹底的に取り締まる目的で明治末期に設立され、その後敗戦まで強権をふるった。
特高は国家反逆罪や天皇への不敬罪を武器に、密告とスパイを活用して“非国民”を手当たり次第に検挙し、残忍な拷問で仲間の名前を自白させてはさらにイモヅル式に逮捕していった。

出典:小林多喜二の生涯

取り締まりを逃れ、地下活動へ

拓銀を解雇(諭旨免職)され、翌年春に東京へ転居。日本プロレタリア作家同盟書記長となる。

1930年6月24日に帰京後、作家の立野信之方で再び逮捕され、7月、『蟹工船』の件で不敬罪の追起訴を受ける。1931年10月、非合法の日本共産党に入党し、11月上旬、奈良の志賀直哉邸を訪ねる。1932年春の危険思想取締りを機に、地下活動に入る。8月下旬、自らの地下生活の体験を元に『党生活者』を執筆した。

獄中での惨たらしい死・・・【閲覧注意】

特高警察に逮捕された。

1933年2月20日、共産青年同盟中央委員会に潜入していた特高警察のスパイ三船留吉からの提案により、赤坂の連絡場所で三船と落ち合う予定で、共産青年同盟の詩人今村恒夫とともに訪れた。その待ち合わせ場所には、三船からの連絡により張り込んでいた特高警察が待機していた。小林はそこから逃走を図ったが、逮捕された。

拷問による内出血で太腿が真っ黒に・・・

出典:pbs.twimg.com

拷問による内出血で太腿が真っ黒に・・・

手塚英孝が『小林多喜二』によると、警視庁特高係長中川成夫(警部。のちに滝野川区長、東映取締役)の指揮の下に、小林を寒中丸裸にして、まず須田と山口が握り太のステッキで打ってかかったとある。その後、警察署から築地署裏の前田病院に搬送され、19時45分に死亡が確認・記録された。

「須田と山口は、にぎりぶとのステッキと木刀をふりかざしていきなり小林多喜二に打ってかかる。築地署の水谷警部補と芦田、小沢のふたりの特高も横から手伝う。たちまち、ぶんなぐる。蹴倒す。ふんずける。頭といわず肩といわず、脛でも腕でも背中でもところかまわずぶちのめす」

出典:大摩邇(おおまに) : 特高警察の「拷問」とはどの程度のものであったのか

下腹部から左右のヒザへかけて、前も後ろも何処もかしこも、何ともいえないほどの陰惨な色で一面に覆われている。余程多量な内出血があると見えて、股の皮膚がばっちり割れそうにふくらみ上がっている。赤黒く膨れ上がった股の上には左右とも、釘を打ち込んだらしい穴の跡が15、6もあって、そこだけは皮膚が破れて、下から肉がじかに顔を出している。
歯もぐらぐらになって僅かについていた。体を俯向けにすると、背中も全面的な皮下出血だ。殴る蹴るの傷の跡と皮下出血とで眼もあてられない。

出典:小林多喜二の生涯

特高警察の小林多喜二への憎しみ

警察が発表した死因は心臓麻痺。3時間の拷問で殺されたことから、持久戦で転向させる気など特高になく、明確な殺意があったと思われる。特高の多喜二への憎しみは凄まじく、彼の葬式に参列した者を式場で逮捕する徹底ぶり

特高警察からしたら拷問は当たり前

特高出身者の本

「特高(特別高等警察)」への悪いイメージしかもっていなかったのだが、その理由はおそらく、マスコミなどで「日本軍」がロクな書かれ方がされないのと同様に、「特高」も長いあいだ意図的に貶められていたからではないか。

「そりゃあ刑事の対象は罪のおそれで比較的おとなしく卑屈にもなるが、特高はこれを敵と見て反抗する相手に立ち向かうのだから、一般の警察的な暴力にまた加わるのですよ。これは共産主義者が非合法運動をやっているのですから。

出典:大摩邇(おおまに) : 特高警察の「拷問」とはどの程度のものであったのか

… わたしは特高になったとき、最初に先輩に訊いたことがある。いったい、こんなに乱暴に扱っていいのか、とね。そうしたら、なにを言ってるんだ、なんならむこうに訊いてみろ、と話にならない。共産主義の側からいえば、おれたちは革命をやるんだ、お前たちと戦争しているんだ、立場が逆になれば、おれたちがおまえたちを取締る、ということでしょう。まかりまちがえばあなたたちを殺しますよ、というわけです。

出典:大摩邇(おおまに) : 特高警察の「拷問」とはどの程度のものであったのか

あたりまえの話なんで、不法だなんだというようなことは言わぬのだ、と。そういうような状態のなかに、取調べる側も取調べられる側もあるので、いまの人たちが考えるように、そうおかしくはないんです。」(同上書 P.125)

出典:大摩邇(おおまに) : 特高警察の「拷問」とはどの程度のものであったのか

当時の日本について考えさせられる

多喜二の書いた『蟹工船』は現代において再ブームとなり、その功績が見直されています。当時の日本ではなく現代に生きていたら、より活躍できたかもしれませんね。。。

물론 아바시리만이 특별한 것은 아니다. 최근 한국에도 <게공선>으로 알려진 프롤레타리아 작가 고바야시 다키지(小林多喜二) 역시 1933년 2월20일에 고문으로 죽었다. 경찰은 사인을 ‘심장마비’로 발표했지만, 목격자의 증언에 따르면 주검은 온몸이 상처투성이에 목 졸린 흔적이 있고 얼굴은 고통에 일그러져 있었다고 한다. 1934년 2월에는 <일본 자본주의 발달사 강좌>라는 책으로 유명한 노로 에이타로(野呂榮太郞)가 고문 후유증으로 죽었다. 1940년 7월29일에는 <로이터통신> 기자 영국인 콕스(M. J. Cox)가 도쿄에 있는 헌병대 본부 건물에서 취조 중에 뛰어내려 자살했다. 1945년 8월9일에는 유물론 철학자인 도사카 준(戶坂順)이 나가노형무소에서 영양실조로 인한 급성신장염으로 숨을 거두었다. 불과 패전 6일 전이다. 이 밖에도 수많은 사람들이 감옥에 끌려가서 고문당하며 죽어갔다.

항복 선언 뒤에도 “비밀경찰은 활동 중”

일본의 유명 정치학자 마루야마 마사오는 1945년 8월15일을 ‘무혈혁명’이라 했다. 



철학자 미키 기요시(三木淸)가 도쿄의 도요타마형무소에서 영양실조로 죽음을 거둔 것은 1945년 9월26일이다. 히로히토가 항복 선언을 하고 나서도 한 달 이상이나 지난 시점이었다. 미키 기요시의 옥사 이후 외신기자의 질문에 당시 내무상은 “비밀경찰은 여전히 활동 중”이며 “또한 공산주의자는 용서 없이 체포하겠다”는 대답을 아무렇지도 않게 했다. 정치범이 감옥 문을 나선 것은 맥아더의 미군정이 석방 지시를 내린 1945년 10월4일부터다. 


1942년부터 1945년까지 약 60명이 체포되고 4명이 옥사한 이른바 ‘요코하마 사건’ 관계자 중 약 30명에게 유죄판결이 내려진 것도 패전 직후인 1945년 8~9월의 일이다. 더구나 이 기간에 일본 정부는 미군정의 추궁을 피하기 위해 관련 자료를 완전히 소각했다. 일본 정부는 항복과 패전에도 일본 전역의 감옥에 갇혀 있는 약 2천 명의 사상범을 석방하기는커녕, 기존 인권 탄압의 자세를 누그러뜨리지 않았던 것이다. 그렇다면 패전부터 정치범 석방까지 ‘공백의 50일’ 동안 일본 인민들이 정치범을 석방하기 위해 움직였을까?

1945년 8월15일 시점에 유치장에 갇혀 있던 역사학자 하니 고로(羽仁五郞)는 “하루빨리 유치장을 나가고 싶었다. 또 나와 같이 공부했던 젊은 친구들이 당연히 나를 맞이하러 올 것이라 생각했다. 즉 (우리의) 석방을 요구할 것으로 기대”했지만 결과는 무참하게도 누구도 정치범을 석방하려 움직이지 않았다고 말한다. 정치범 석방을 위해 먼저 움직인 것은 조선인이었고, 이들 정치범을 최종적으로 석방시킨 것은 ‘혁명적 독재’라 불리는 미군정 당국이었다. 게다가 10월4일 이후 형무소 앞으로 정치범을 맞이하러 온 사람도 대개가 조선인이었다.

히타카 로쿠로(日高六郞)는 <전후 사상을 생각한다>(1980)에서 미키 기요시의 죽음에는 의도적인 살인의 가능성이 있다면서 “일본 정부는 패전 후에도 미키 기요시를 석방하지 않았다. 그리고 일본 인민은 미키 기요시를 구할 수 없었다”고 말했지만, 사실을 말하자면 일본 인민은 미키 기요시를 구할 수 없었던 것이 아니라 아예 구하려고도 하지 않았다. 만일 무혈혁명이든 유혈혁명이든 항복 선언 이후 일본 내에서 정치범 석방을 위한 움직임이 신속하게 나타났다면 미키는 죽지 않았을지 모른다. 이렇게 보면, 마루야마가 말하는 ‘무혈혁명’은 결과적으로 틀렸다. 오히려 일본 인민의 주체적인 힘으로 전쟁을 끝내지 못했다는 회한을 담아 ‘민족의 굴욕’이라 표현한, 중국 연구자이면서 사상가였던 다케우치 요시미(竹內好)의 지적이 한층 더 설득력 있어 보인다.


1976년 1월 일본공산당 의원이 중의원에서 질의를 통해 밝힌 숫자로 그 윤곽을 알 수 있을 뿐이다. 체포자 수십만 명, 검사국으로 송검(送檢)된 자 7만5681명, 송검 뒤 사망한 자 1682명, 체포 뒤 고문으로 사망한 자 65명, 체포가 원인이 되어 옥사한 자 114명, 체포 뒤 병사한 자 1503명. 


http://h21.hani.co.kr/arti/world/world_general/37663.html



 억압과 지배 속에서 침략전쟁에 항거하다 죽어간 시인 마키무라 히로시


http://www.segye.com/content/html/2009/04/15/20090415003676.html